予定論を否定するキリスト教は無神論である

 

予定論に立たないキリスト教は、キリスト教ではなく、無神論である。

もし世界で起こるわずかなことでも神の意志によらずに「偶然に」起こるならば、そこにおいて神は神ではなくなるのである。

そのような「神」は、予期せぬことに驚き、それによって影響される。

影響されるのは相対者である。

絶対者は何事にも影響されない。世界で起こるあらゆることがらは、神の意志に基づいて起こるのである。

それゆえ、森羅万象は神の予定によって起こるということができる。

予定によって起こらないというならば、そのクリスチャンが言う神とは、神ではないのである。

それは、人間を大きくしたものでしかない。予期せぬことに驚き、悩み、計画を妨害され、狼狽する…。このような神は神ではないので、それは、キリスト教ではなく、無神論である。

予定論を主張しないキリスト教は、神の前に起源不明の「自然」があり、「基準」があったと仮定する。神の創造とは、この自然の中で追加された「付加物」である。それゆえ、このようなキリスト教は、神を存在の秩序の中で人間や被造物と同じレベルに置くのである。自然の秩序の中において、神が頂点にあり、その次に天使、人間、動物、下等生物、無生物…というような序列をつける。

しかし、聖書は、神を超越者と述べているのである。
神は、創造の秩序の中でトップにある者ではなく、秩序を越えた存在である。テストで言えば、偏差値80のトップの生徒ではなく、出題者なのである。神は法の下にいて、法を完全に守る者ではなく、法を「与える」者なのである。

神は無から世界を創造されたので、神の前に自然や法は存在しない。この世界を統治するのは神の法でなくてもよい、と主張するキリスト教は、それゆえ、神を真の意味での創造者としないので、それゆえ、異端である。



 

 

2003年05月20日

 

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