多神教は解決ではない
先ほど放映された、塩野七生が監修したローマ帝国の歴史に関する番組を見て思った
のは、日本の知識人の神観に関する典型的な誤解が反映されている、ということであ
る。
キリスト教やイスラム教は「一神教」で、不寛容。
しかし、日本神道などの多神教は寛容。
ユリウス・カエサルは、多様な価値観を認め、世界国家を作ろうとした、と塩野氏は
いう。
(1)
たしかにローマは、いろいろな神を許容した。しかし、同時に皇帝崇拝を強要したこ
とを忘れてはならない。
ローマ皇帝の寛容とは限定的な寛容だった。
彼らは、「あなたがたの神をそのまま信じ続けてもいいよ。何でもOK。ただし、私を
拝むことは忘れないように。」と言うのである。そして、皇帝を拝まない者を捕らえ
て処刑したのである。ネロ帝の時代に非常に多くのクリスチャンが皇帝崇拝を拒否し
たために殺された。
こういった重要なポイントを省いているため、この番組は人々に誤解を与えるもので
あった。普通の人々は、「ああ、一神教のキリスト教よりも多神教のほうが寛容です
ばらしいじゃないか。」と結論してしまうだろう。
多神教のシステムの根本的な問題は、多様な価値観を際限なく認めるため、混乱が生
じて、そのため、最後には、強い独裁者を必要とするようになる、という点にある。
多神教が寛容であるというのは、ある条件のもとにおいてだけである。それは、「為
政者の意思の範囲内において」という条件である。もし、この条件がなければ、秩序
は成立しない。
多神教は、多様性を究極の価値と見るので、統一を嫌う。しかし、国家が一つのまと
まりとなるためには、際限なく様々な価値観を飲み込むことはできない。国をまとめ
るためには、どうしても、ある特定の価値観が、他の価値観を押さえ込んで、強制力
を働かせる外はない。
たとえば、「我々に逆らう人をポアしてあげることは正しいことだ。」と主張するオ
ウムの価値観を、日本国の価値観は押さえ込む以外にはない。どの価値観も際限なく
受け入れるなどということは、政治の現実において不可能なのである。
そこで、問題は、国は、どの価値観を選択するか、ということである。
ローマ帝国は、寛容な国家ではなく、皇帝の価値観が、他の価値観を押さえ込むこと
によって成立していたのである。
多神教の体制が寛容だなどというのは、まったくの誤解である。
(2)
キリスト教とイスラム教を同じ一神教にまとめることはできない。
キリスト教は、一神教であるから統一性を重視するのだが、同時に、神の中に三つの
位格があるとするので、多様性をも重視するのである。これが、一つの位格しか持た
ないイスラム教との大きな違いである。
帝国主義、独裁主義、不寛容を避けるには、多神教に逃げ込むのではなく、キリスト
教の法体系を受容することである。
なぜならば、多神教が国家を際限のない混沌に落ちこませるのに対して、キリスト教
の法体系においては、秩序を成立させる一人の神がいるので、多様化に歯止めがかか
り、独裁者の出現を防ぐことができるからである。
キリスト教の法体系においては、為政者すらも、聖典である聖書に拘束され、わがま
まが許されない。
2003年11月4 日
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