イエスを主とすることの範囲

 


> 「定義はキリスト教神学にとって危険です。危険であるという単純な理由は、定義は
> 私たちの頭脳が理解するのに好都合な大きさに、真理を縮小してしまうからです。し
> かし、真理はいつも私たちの理解力以上に大きいものです。真理を定義することに
> よって真理を排除することは、私たちが聖書を学ぶときに私たちの知性に混乱や間
> 違った考えを助長することです。これは私たち『科学の時代』に生きる現代のクリス
> チャンだけの問題ではありません。これはクリスチャンの歴史を通しての問題です。
> 時としてそれは大きな問題となったり、小さな問題であったりしました。事実、キリ
> スト教史の中の最も偉大な神学者たちがもっともすばらしい聖書の真理を見落として
> いたりするのです。」

たしかに、定義は恐ろしいと思います。
「ホッジの注解を読まないとローマ書は理解できない」というような類の発言は怖いと思います。
しかし、定義しないでは、神学は一歩も進まないので、定義する努力は必要と思います。

自然は、法則を生で教えてくれません。
人間は、実験や議論を積み重ねることによって、雑漠とした自然現象の中から法則を抽出します。
それと同じように、聖書は、真理を生では提供してくれません。
「あなたがたは誰も、天の父以外、父と呼んではならない。」と言う言葉をそのまま文字通り真理と受け取れば、家庭の中で「お父さん」ということも禁止されていると結論しなければならなくなります。
ヴァン・ティルが述べるように、真理を得るためには、聖書の様々な個所を個別に分析・検討し、それを総合し、また、個別に戻り、また、総合し、という作業を繰り返す以外にはありません。

このティムという方の考え方は今日、広くクリスチャンに受け入れられており、それは、彼のような健全な理解に導くというよりも、むしろ、「だから、神学なんて不要だ」という不健全な理解に人々を導いているような気がします。

どのような学問においても、定義は絶対不可欠であり、それと同様に、神学においても、定義は欠くことはできません。

そして、神は、定義という人間の営為を我々に命じているのであり、それを通して御心を啓示しようとしておられるのです。もし、そうでなければ、聖書とは、非常に体系的な組織神学書のようなものであるはずです。

しかし、聖書は、非常に難解な個所、全体を見渡さねば誤解してしまうような個所が無数に存在します。

それゆえ、異端や間違った解釈が出てきやすいということにもなるのですが、しかし、神はそのような危険をも承知の上で、聖書を「製品」としてではなく、「原料」として提示されているのだと思います。

神が、最初から文明を創造されず、自然を創造されたように、聖書も最初から教理本としてではなく、題材として記されたというのは、「聖霊プラス人間の労働」によって真理を得させる方法を我々に与えておられるからです。

預言には2種類あります。

(1)そのまま理解できるもの。
(2)解き明かしがなければ理解できないもの。

ネブカデネザルの夢はたしかに預言なのですが、ダニエルの解き明かしがなければ理解できませんでした。

ある意味において、聖書全体が(2)のような「謎解き物語」であり、「謙遜と聖霊がなければ誰も聖書の真理を理解できない」のです。

定義を避けることはできません。
そして、神が教会を導いてこられた過程で、この定義は歴史を通じて、教会が様々な体験を通るなかで、厳密化され、信仰信条として定型化されてきました。
このような厳密化の過程を「理由なく」拒否することは、歴史の失敗を繰り返すことになります。
それゆえ、私たちは、どこまで分かっていて、どこまで分からないのか、をしっかりと調べ、このような歴史的遺産を土台として、新しい真理を求めていく必要があります。

それゆえ、過度のドグマ依存は回避すべきであっても、ドグマそのものを回避することはできず、また、今日のキリスト教界全般に見られる、ドグマ嫌悪傾向は、非常に危険であると思います。


> 奥村さんのフォローの投稿から明らかに、あの発言は無律法主義をサポートするもの
> ではないことは明らかです。それどころか、恵みはよい行いを生み出すこと、恵みは
> すべての領域でキリストを主と認める方向へと向かうことを信じておられるのです。

それは承知しています。
私が問題提起したのは、「信仰によって100%救われる」というスローガンを悪用する傾向が今日多く見られるので、まず筆者である奥村氏の真意を確認することと、その上で、人々の意識を喚起したかったということです。


> もちろん同じことばを持って、だから信仰はイエスを主とすることが入っていない、
> またはクリスチャンには救われただけのクリスチャンと献身したクリスチャンの二種
> 類いるというディスペンセーション神学から生み出された神学を主張する人々も確か
> にいるでしょう。
> しかし、私たちはそのような人々に聖書をもってチャレンジしていかなければならな
> いし、富井さんのお働きはそのひとつであり尊い働きです。
> しかし、もし富井さんが徹底的に定義の問題にこだわり過ぎられるならば、奥村さん
> から出てきた「それでは、主とするとはどこまでですか?」の問題に移り、人間はだ
> れも具体的にそれを提示できない、提示するときそれは人間の領域を踏み越え神の領
> 域に入り、やってはならない主権を犯すことになるのではないかと思います。


私は、主権の問題は、聖書がはっきりと述べていることであると思います。

「私よりも、父母、兄弟、…を愛する者は、私にふさわしくない」とはっきり述べ、「自分のいのちを愛する者は、それを失い、それを憎む者はそれを得る」と明言しているのですから、聖書が述べている「主とすること」とは、「全的献身」以外ではありえません。

これは、旧約聖書において、契約の民が全焼のいけにえをささげたことからも明らかです。「すべてを煙とせよ」と命じられているのですから、自分のうちに、自分のために取っておくことができるものは一つもないと言えます。

事実、教会においては、「自分のものとして取っておくな。握っているものを放せ」というメッセージはよく聞かれるのではないでしょうか。

聖霊の働きを妨害するものは、自分の内側にある「ささげきっていないもの」である、と。

このようなメッセージは、聖書的でありすばらしいと思います。わたしは、教会がこの点において正しいことを教えていることを認めます。

しかし、他方で、いざ再建主義者が、「政治も経済もスポーツも学問も一切を聖書に基づいて再建すべきだ」と言い始めると、「いや、地上のことは地上の原理でいいではないか。」という意見が返ってくるという現実があります。

そして、こちらが「律法は神の御心を示しているので、守るべきだ」というと、「律法に縛られる必要はない」という答えが返ってきます。

つまり、何を言いたいかというと、教会において「すべてをささげよ」という教えが、教会に侵入した「霊肉二元論」「無律法主義」「ディスペンセーショナリズム」「プレ・ミレ」によって、有名無実化しているのではないか、ということなのです。

これらの偽の教えによって、「抜け穴」ができているのではないか、ということです。

私は、「すべてをささげよ」では抜け穴ができるので、はっきりと次のように言いたいと思います。

「地とそれに満ちるすべてのものにおいてキリストの主権を確立し、全世界をキリストの御国とするために全力を尽くそうとしない人は、キリストの名にふさわしくない」と。

「地上のことは、地上の原理で…」という教えは、クリスチャンをこの使命から逃れさせるためにサタンが用意した巧妙な逃げ道であり、そのような教えを信じるように許している教会は、まさに、実質的に「すべてをささげる必要はない」と教えているようなものではないか。

「地上はもうすぐ反キリストによって蹂躙され、クリスチャンの業もすべて水泡に帰する。我々は魚を釣るために召されたのであって、水槽を掃除するために召されたのではない」という教えは、実質的に「すべてをささげる必要はない」と教えているようなものではないか。

このような抜け道が用意されたために、クリスチャンが地上を御国と変える必要を感じることがなくなり、そのために、200年間、地上のことを放棄し、それをサタンの手にゆだねた結果、これだけ世界が世俗化したのではないか。

それゆえ、私は、「どこまでが主とすることか」という疑問には、聖書ははっきりと答えていると考えるのです。

「地を従えよ」との文化命令を無視するクリスチャンは、クリスチャンとは呼べないのではないか、と思うのです。


> 富井先生の発言はいつも示唆に富み、教えられることが多いので、それがドグマティ
> ストになり、多くの真理を求める人々を、その姿勢のゆえに遠ざけることになりはし
> ないかと危惧するものです。

ドグマティストとは、聖書の根拠を提示せずに、教派の伝統とか、人間の言い伝え、神学的見解を、無理やり押し付けることだと思います。
私は、少なくとも、聖書の根拠を明示し、論理的に話をするように努力しているつもりですが。


 

 

2003年05月05日

 

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