法は自由の基礎である

 


今さかんに自衛隊のイラク派遣について議論が行われている。
なぜこれだけ議論があるかといえば、もちろん、自衛隊派遣が憲法に抵触するのでは
ないか、という恐れがあるからである。
現地に言っても、戦闘行為が禁じられていれば、イラク側からの攻撃があった場合ど
うやって自己防衛するのか、そこで武器を使用すると、処罰されるか、という問題が
あるのだ。

このように、自衛隊は、法律によって拘束されている。なぜならば、日本は法治国家
だからだ。

法治国家では、立法府が決めた決まりによって罪や刑罰が決定される。人間の一存で
処罰されるということがないため、法律に抵触しない限り我々には自由がある。
自由の基礎は、法律にあるのだ。

今日のクリスチャンの一般的な誤解は、「法律は自由を阻害する」ということにあ
る。

だから、教会において律法は毛嫌いされているのである。私は、教会の説教において
律法を解説すると、「クリスチャンは律法には縛られない」と反発を受けた。ほとん
どすべての牧師は、私の説教に対して強く反発した。「なぜ、我々を縛ろうとするの
か」と。

律法は縛るためではなく、自由を与えるためなのである。
もちろん、悪人にとっては拘束である。しかし、秩序正しい生活を望む人々にとって
は、律法は自由の保証なのである。

先に紹介したように、ポルノに触れる人は、ポルノの奴隷になる危険がある。ポルノ
中毒患者は、次第に強い刺激を与えるポルノにはまっていき、ついに、犯罪者になる
こともある。

だから、我々はポルノを禁止しなければならないのである。

ポルノを自由と誤解して、1970年代からポルノが解禁されてきた。これは、フロイト
の理論に基づく。しかし、ポルノは自由を与えるのではなく、かえって我々を束縛す
るのである。

人を奴隷に落とすような性質を持つものについて、政府はそれを根絶する責任があ
る。少しでもそれに触れる機会を与えることは、人間を奴隷と犯罪に導くことになる
からである。

アメリカの諸州において、ポルノ解禁の度合いと、性犯罪は正比例の関係にあること
が証明されている。

もし国が十戒を基本原理として採用し、ポルノを根絶することができれば、若者は奴
隷に陥るきっかけを失うので、自由が広がるのである。

法は、人間の自由の基礎である。クリスチャンがまず、このことを認識し、人々に法
を尊重するように訴えなければならない。

 

 

2003年11月06日

 

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