去勢されたキリスト教と教会音楽
人間が神の似姿であるとすると、人間には、日本人だけではなく、ラテン人、アフリカ人、白人もいるわけです。ラテン人やアフリカ人のリズム感とか動き、陽気さとかを見ると、日本人がイメージする神像が変わってくると思います。
日本人の場合、「厳粛さ」というものが、どうしても、日本の結婚式とか葬式、茶道、いけばななどに見られる落ち着いた雰囲気と同類と考えられてしまうのですが、おそらく神様が考えておられるそれはもっと広いものなのだと思います。
黒人のゴスペルクワイアーなど、人種や民族が違うとそれぞれの味も異なってくるのですから、教会が何か一つの型に当てはめなければならないというわけではなく、神は、それぞれの味を尊重して、神が与えた性質を生かしていくことを望んでおられるのではないかと考えます。この多様性の発揮こそ、一であると同時に多でもある神の国の栄光の現れなのだと思います。
冒涜と感じるのは、「ノリノリ」にではなく、その歌われている歌詞の内容と、そういった歌詞を書いた人々の属する思想から生まれるメロディーの質です。
個人的な歌というものが悪いのではなく、「人間中心」が悪いと思います。
たしかに、聖書は、「キリストは私たちを愛してくださる」と述べているのですが、それだけではありません。
キリストが死んでくださったのは、キリストを信じる人々がもはや自分のためではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのですから、自ずと目は御国の建設に向けられるはずです。
しかし、今様のゴスペルソングと呼ばれるものの多くは、セキュラーなラブソングの主人公を神と自分に置き換えたものでしかないのではないか、と感じるほど、「愛している」「愛されている」で終始しているように思われます。
たとえ「愛している」「愛されている」という表現があっても(今日の歌ほど多くはありません)、ダビデの歌の中には、神と自分との関係をふまえた上でさらに外に目が向いています。しかも、それは、単なる「だから、伝道しよう」「のべ伝えよ」ではなく、「地を従えよ」という方向に向かっていると感じます。
我々が手にしている聖歌・賛美歌、ゴスペルソングの多くは、ここ100年から150年の間にできたものだと思います。私は、この方面に詳しくないのですが、おそらく、ルターの書いた「神はわがやぐら」のような歌と、この時期に書かれた歌とは、質的に大きく異なっていると感じます。
その質的違いとは、おそらく、「去勢されているかいないか」という違いだと思います。
サタンのねらいは、クリスチャンを去勢することであり、この地上世界の覇権に対する関心を殺してしまうことです。
サタンがカントを通して、また、ディスペンセーショナリズムをとおして行ったのは、実にこのことでした。
アメリカの戦後政策の中心の一つは、日本人を去勢することにありました。
第9条、日米安保もこの政策の一環であり、まさしく支配者が被支配者に対して、また、宗主国が植民地に対して行う武装解除の一種と思います。
去勢の目的は、ただ一つ「支配」なのです。対抗勢力の力を殺ぐことにあります。宦官が皇帝から信頼されたのは、自分に向かって手を挙げ、国の支配権を奪おうとする意欲がないからです。宦官は実務能力に長けていますが、覇権を争うことには無関心です。男性の生殖器を切除することによって、その人のメンタリティーも非男性化します。
サタンは、我々を支配するために、霊的にクリスチャンを去勢することに成功しました。偽りの思想を植え付けることによって、クリスチャンの心を「私小説化」したのです。
ですから、私たちは、去勢される前の姿に帰る必要があると思います。
サタンと覇権を争う思想及びメンタリティーに戻れば、自ずと、賛美歌の歌詞やメロディーも変わってくると思います。
2003年05月13日
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