女性は教会で男性を教えてはならない
神は人間をご自身に似せて創造された、とあるので、人間の目的は、神を象徴することである。
なぜ女性が男性の上に立って教えることを聖書が禁止しているか、と言えば、それは、創造の秩序と矛盾しているからである。
女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(1テモテ2・12−15)
男性は、神の象徴である。
女性は、男性の象徴である。
男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。(1コリント11・7)
男性はキリストのために創造されたように、女性も男性のために創造されている。
また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。(1コリント11・9)
被造物の目的が、神を完全に象徴することであるならば、我々は、今日のようにいかなる歯止めもなく、教会において女性に男性を教えさせている風潮を批判しなければならない。
教会において、女性が男性を出し抜いて支配の座に着くことを許しているのは、「創造の秩序の破壊」であり、「象徴としての人間の義務不履行」である。
旧約聖書に少数の女性士師が見受けられるが、あくまでも「例外」である。
聖書は、明らかに、女性が教会において「説教」することを禁じている。女性は教会において、教えを受ける立場にあって、教える立場にはない。
「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」
ここで、2度も「静かにせよ」と言われている。
つまり、女性が教会において教えることは、「静かではない=騒々しい」ことだ、と神は判断しておられるのである。
男性として生まれることと、女性として生まれることは、召命である。
だから、男性も女性も、自分の召しにふさわしく歩まなければならないのである。
自分が召されてもいない者になろうとすることは、傲慢である。
2003年06月04日
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