携挙は過去か未来か?
プレテリストの中には、携挙がすでに起こったとする意見がありますが、私はこれに同意できません。
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、 空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・13-17)
たしかにこの手紙は、ユダヤ人に対する裁きが切迫しているという背景で書かれています。
彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。(1テサロニケ2・16)
それゆえ、携挙過去説のプレテリストたちは、このいわゆる「携挙」の個所も、紀元70年の神殿崩壊の預言であり、「主が再び来られる」というのも、今日のクリスチャンが「再臨」と呼んでいるものではなく、(マタイ24章のような)紀元70年のイスラエルへの裁きとしての来臨を指すと考えています。
しかし、果たしてこの個所は紀元70年におけるイスラエルの終末に関する個所なのでしょうか。私はそのようには考えられないのです。
というのは、この個所は、「眠った人々のことについて…他の望みのない人々のように、悲しみに沈むことのないため」に記されているからです。つまり、死者となった兄弟姉妹について嘆き悲しんでいる人々への励ましが動機なのです。パウロは、死者の復活について望みのないノンクリスチャンのように絶望してはならない、クリスチャンは復活を信じているのだから、亡くなった親族や兄弟姉妹、同朋のクリスチャンともいずれ再会できるのだ、それゆえノンクリスチャンのように悲嘆に暮れるべきではない、と言おうとしているのです。
ということは、この個所で「死者が…よみがえり」と言われているのは、霊的復活ではなく、文字通りの復活=肉体的復活を意味するのは明らかです。
霊的復活ならば、バプテスマを受けた時に、キリストとともにクリスチャンは霊的によみがえったのですから、それ以上の霊的復活を期待することはできませんので、霊的な意味でならば「復活があるから悲しんではならない」という励ましは無意味です。
フルプレテリストは、肉体の復活もすでに起こったと主張しますが、パーシャルプレテリストはそのようには主張しないので、パーシャルプレテリストに留まる限り、この個所を未来の出来事と解釈しなければなりません。
では、「主が再び来られるときまで生き残っている私たちが」と言われているのはどう解釈すべきか、これは、パウロが自分の時代にこの出来事が起こると考えていたことを示しているのではないか、と言われるかもしれませんが、これについては、「たしかに、パウロは、肉体の復活をもたらす最終再臨を間近に期待していたのかもしれない」と考えることができます。
つまり、パウロにおいてすら、紀元70年におけるキリストの再臨と、終末における最終再臨との区別があいまいであった、もしくは、それらを区別していなかった、とも考えることができます。
千年王国と携挙の関係については下図を参照。
http://www.millnm.net/qanda/rapture.gif
2003年06月09日
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