灰色を白と黒に 2

 

灰色を白と黒に 2

現代とは、灰色を白と黒に分けることに罪責感を感じる時代である。

違反を違反として扱わない、罪を罪として扱わない時代である。

子供を懲らしめることに罪悪感を持っているため、子供は必要な刑罰を受けられず、そのため、精神的な歪みをかかえたまま大人になる。

父親が子供を懲らしめることができないと、子供は大人になって父親の代役を求めるようになる。自分の行動を厳しく叱って懲らしめてくれる人を求める。

このような欲求は、サディズムやマゾヒズムという歪んだ形で現れることがある。

人間は、神の被造物なので、神の法が適用されるときに初めて健全になるようにできているのである。

神の法は、「目には目を」である。

これは、復讐を教えているのではなく、罪にはそれに相応しい刑罰を与えよ、ということである。

つまり、神の法は、「帳尻を合わせよ」と命じているのである。

殺人を犯した者に対して、「心神耗弱」「未成年」などの理由で相応しい刑罰を与えないために、「帳尻が合わない」状態が生まれ、被害者だけではなく、加害者にも不要なストレスがかかるのである。

水戸黄門のストーリーで、弱者をいじめる悪代官が最後に勝利を収め、水戸黄門をも殺してしまったら、どうだろうか。人々は後味の悪い思いをするだろう。視聴率も大幅にダウンするだろう。

人間は、罪には相応しい刑罰が下るべきだ、悪は罰せられるべきだ、という本能を神によって心に植え付けられているのである。

「彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ2・15)

計画的殺人犯に処刑以外のものを与える社会は、被害者の遺族や一般市民だけではなく、加害者にもストレスを与えているのである。加害者は、本能において罰せられることを望んでいるのである。たとえ、逃げ隠れても、彼は、罪責感をかかえたまま一生苦しみぬくだろう。

たとえ苦しまなかったとしても、その罪は彼の人生を破壊するだろう。

なぜ古来から、様々な民族において殺人の刑罰が処刑であったかと言えば、それは、その社会が生き延びるには、これしか方法がないと、本能的に悟っていたからだと思う。

殺人者を許すと社会全体がおかしくなるということを、長い体験を通して理解していたからだと思う。

最近流行の死刑反対思想は、時代の試練を経た後に捨てられるだろう。

人間は、神に任命されてこの地上を統治する王である。

それゆえ、人間は、神の知恵にしたがって、様々な出来事に審判を下さねばならない。

日常的な瑣末な問題から、司法における審判まで、我々の日常は、「裁き」で満ちている。正しく裁くことができなければ、その社会自体が神によって裁かれ捨てられるのである。

灰色を許容し、物事に白黒つけることを嫌う社会は、滅亡の坂道を転げ落ちているのである。


 

 

2003年08月12日

 

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