それをして何になるのか?

 


私がキリスト教の批判者に対して一様に感じるのは、「それをして何になるのか?」という疑問である。

福音書がミトラ教の盗作だと言うことによって、一体その人は何をしようとしているのか?読者に希望を与えようとしているのか?聖書に対する疑いをキリスト教徒たちに与えることによって、彼らに未来を与えようとするのか?

言っておくが、こんな疑念を植え付けられても、ただ迷いの中に放り込むだけで、人は希望など持つことはできない。

もし、この世界に、聖書という不滅の土台がなければ、人間の生は「冗談」である。

真面目に生きることにまったく意味はない。

客観的で普遍的な土台、真理、神の啓示がなければ、生きていることにいかなる意味もない。

すべては崩壊する。

宅間が、離婚した妻を苦しめるために、無辜の子供たちを虐殺したとしても、それが何だと言うのか?

「強い者は弱い者を滅ぼす」という弱肉強食、適者生存を例証しただけではないか?

考えてみて欲しい。

キリスト教を批判しても、何も建設的なものは生まれない。まったくの無駄だ。

聖書を相対化することによって、この世に客観的・普遍的倫理は存在しない、ということになるのだから、「一体正しさに何があるというのか」「真面目に生きて何になるのか」という疑問が起きて当然だ。

それに対して、君達は、「そうだ。諸君。目覚めよ。聖書などは作り物にすぎない。目を覚まして洗脳から解放されよ。」というかもしれないが、「解放」してあげて、じゃあ、どこに連れていってくれるのかね。

君達が人々に対して提供しているのは、「茫漠たる虚無と無意味の世界」だ。

そんなことして虚しくないかね。


 

 

2003年11月19日

 

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