気になるクリスチャンの誤解について

 


しばしば耳にする、気になるクリスチャンの誤解について:

1.「人間は裁いてはいけません。神しか裁くことのできる方はいません。」――

たしかに、そのとおりである。人間は、みな罪人なので、誰も堂々と他人を裁くこと
ができる者はいない。

しかし、神は、そのような罪人に向かって、あえて「裁け」と言われるのである。

人間が創造され、また、今日でも生存を許されているのは、裁くためである。

正しいものと間違ったものを区別し、それに審判を下すことを神は人間に委ねられた
のである。

人間は、神の権力代行者である。ある人は、国家の長として召され、ある人は、家庭
の長として召され、ある人は教会の長として召されている。会社の長として、また、
部の長として、課の長として召された人がいる。

それらの人々は、自分に与えられた持ち場において裁くことを神に委ねられているの
である。もし、会社の長が、部下の不正を裁くことができなければ、会社は混乱し、
ついに、破産するかもしれない。家庭の長が、家族のメンバーに対して裁くことがで
きなければ、家庭は目茶目茶になる。

人間は、持ち場持ち場において、神の代わりに裁かなければならないのである。

しかし、それでは、イエスが「裁くな」とおっしゃったのはなぜだろう。

イエスが「裁くな」と言われたのは、「自分勝手に裁くこと」を禁止しようとされた
からである。

神の権力代行者としてではなく、自分自身が神になって神の指示を聞かず(つまり、
聖書に基づかずに)裁くならば、その人は、独裁者であり、神の代役にはなれない。
だから、神は彼を裁いて、廃位させるのである。

「おまえには任せられない」と言って。

イエスは、他の個所で、「裁くならば、正しい裁きをしなさい」と言われた。

裁くことそのものが悪いのではなく、「不正な裁き」が悪いのである。



2.「『私は、聖書に従う立場を取る』とあなたが言ってもあなたの意見が正しいと
は限らない。どのクリスチャンでも、私は聖書に従っている、と言うから。それゆ
え、『聖書に従う』という言葉をもってある人の立場を評価することはできない」
――

たしかに、「聖書に従っている」と誰かが述べたからといって、その人の説が正しい
とは限らない。勝手に、「これが聖書の言っていることだろう」と誤解している場合
もあるからだ。

しかし、それだからと言って、「聖書に従う」ということを教えの試金石として重視
しなくてもよい、ということにはならない。

「裁判で、どの被告でも『私は法律に照らして無罪だ』と主張する。だから、法律に
照らして、被告を裁くことは間違いだ」という論法が誤っているのと同じである。

問題は、「聖書に従うと言う言葉ではなく、実際にその考えを、どこまでも聖書の具
体的な言葉によって証明できるか」にあるのだ。

今の例で言えば、「『法律に照らして判断すること』そのものを拒絶するのではな
く、その被告の無罪を本当に法律の具体的な条文によって証明できるか」が重要なの
である。

だから、ディベートは有益なのである。

聖書という基準に照らして、出てきたあらゆる疑問に合理的に答えを出せるかどう
か、もし、それができるならば、その人の主張「私は聖書に従っている」という言葉
は正しいと評価されるし、もしできないならば、間違いと評価されるのである。

日本の法廷で、最高権威が法律であるのと同様に、クリスチャンにとって、最高権威
は聖書である。そして、クリスチャンはみな、自分の立場、思想、行動の正当性を、
聖書から証明する責任がある。


3.「瞬間移動など奇跡なんて絶対にありえない。今の時代に、そのようなものがあ
ると主張するのは間違いだ」――

これまで2度瞬間移動をしたことがあると公言する牧師がいて、その先生のことを尊
敬していたので、HPに載せたところ、クレームが来た。

「そんなオカルトみたいなことを言うな。」

そこで、「聖書にはたくさん瞬間移動の記事がありますよ。イエスはサタンによっ
て、神殿の頂や、高い山の上に連れていかれたじゃないですか。ピリポは宦官に洗礼
を授けたあとで、瞬間移動しましたよ。」と答えると、

「いや、それは、聖書の時代の話だ」

「聖書の時代にはそのような奇跡は起こって、今の時代には起こらない、と聖書のど
こに書いてありますか?」

「いやいや、そういうのは常識では考えられないから…」

「常識で考えられないことを、私たちは毎日体験していますよね。たとえば、祈りで
す。それとも、祈りというのは、単なる独り言なのでしょうか?それは、神との対話
ではないと?」

今日、いわゆる福音派系の教会の人々の中には、霊的現象、奇跡、神癒などを「オカ
ルト」とか言って軽蔑する人々がいます。

夢を見たとか、幻を見た、悪霊を追い出した、などと言うと、すぐに「カルト」と呼
ぶ人々がいます。

彼らの重大な欠点は、「自説を聖書から論証できない」という点にあります。

もし、常識を振りかざしてカルト呼ばわりすることが許されるならば、処女懐胎をし
たマリアはカルトであり、マリアの証言を信用した聖書記者はカルト教信者です。

聖書が教える神とは、「常識を超越した存在」なのですから、信仰の世界を常識のレ
ベルに落とすことは、一見すると正しいように見えて、実は、極めて「悪魔的」な行
為のです。

なぜならば、悪魔は、しばしば常識を振りかざしてクリスチャンを攻撃するからで
す。

「常識的に考えろよ。おまえの病気が治るはずなど、絶対にないぞ。」とか、「世間
の常識から判断すると、おまえの罪は絶対に許されないな。これでおまえの社会生活
も終わりだ。」とか、言って、いかにも分別があるような顔をしてやってくるのが、
サタンなのです!

「常識」を振りかざす人には、注意せよ、というのは、信仰生活の基本です。

神は、私たちに常識を超越することを望んでおられるのです。

イエスは、水の上を歩いて、弟子達の前に現われました。そして、ペテロに「水の上
を歩いて来なさい」とお命じになりました。

今日の教会の「霊嫌い」「奇跡嫌い」は、教会がサタンの罠にはまっていることを如
実に証明しています。

霊現象や奇跡などを毛嫌いする教会には注意しましょう。

 

 

2003年10月30日

 

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