象徴を重視せよ
大学時代、今様のキリスト教に触れて感じたのは、「カジュアルさ」である。
大学生は、Tシャツとジーンズで礼拝に出ていた。かくいう私もその一人であった。
これは、「本質が大切なのだから、格好など関係ない」ということと、「ギリシャ人にはギリシャ人のように」という理由からなのだろう。ニューエイジャーを獲得するために始まったアメリカの運動の影響もあるのだろう。
たしかに、伝道において重要なことは、キリストの救いを効果的に伝えることである。だから、形にこだわることによって、無用な垣根を作るべきではないのかもしれない。
しかしだ。
このカジュアルさが、神礼拝を安っぽくし、その安っぽさが、神への冒涜を生んでいるような気がするのだが、いかがだろうか。
私は、礼拝は、天における真の礼拝の地上版であると考えている。天において、御使いたちが、光り輝く主の御座の前で「聖なる、聖なる、聖なるかな!」と賛美する荘厳な光景を地上において現出させるのが礼拝なのだと思う。
以前、東京市谷にある改革派の教会に出席して本当に驚いた。
牧師と長老が座る講壇が、光輝いているのである。牧師も長老も顔から光が照り輝いており、まるで天の御座を見ているような気がした。
牧師のメッセージは、たんたんと聖書の一字一句を解説するだけの平凡なものだったが、あのような神的威光を目の当たりにしたことはなかった。
地上の礼拝は、天の礼拝の反映であるべきだ。それは、単に彫刻やステンドグラスで飾り立てることを意味しているのではなく、神が霊的に臨在されていることをはっきりと表すことだと思う。つまり、内面の聖化がなければ、本当の礼拝には近づけないということである。
しかし、だからと言って、外面においてどうでもよいというわけではないだろう。
聖書において、衣服は人間の状態の象徴である。
アダムとエバは皮の衣を与えられた。
これは、罪が覆われたことを象徴している。
人間は、罪を犯した後、裸は正常な状態ではなくなった。
堕落前において、人間は無罪であったから、堂々と裸でいても恥じることはなかった。
しかし、堕落後は、人間にとって裸は恥の対象になった。
犯罪者が報道陣の前で顔を隠したがるのと同じように、それまで堂々と出していたものを隠したくなるのは、自分の状態が変化したからである。つまり、罪を負ったからである。
それゆえ、人間にとって衣服とは、第一に、贖いを象徴するのである。
イスラエルの祭司は、全身をすっぽりと衣服で覆わねばならなかった。(機能上の必要から)顔と手は例外であるが、それ以外、一部であっても露出することは許されなかった。隠しどころが主の目に触れないように、また、階段を上っていくときに、民が下から祭司の衣服の中を見ることがないように ももしき を履かなければならなかった。人間は、生の姿ではどの部分であっても神の御前に出ることはできない。人間はキリストの贖いによって全身を覆われなければならない。
第二に、衣服は、神の似姿としての栄光を象徴する。人間は神の権威の下にある者としての栄光を衣服を通じて表現しなければならない、ということが祭司の服装から明らかである。被り物は栄光を表現している。聖書では、「被り物を奪われる」という言い方で権威を失うことを表現している。
第三に、衣服は、被保護者であることを象徴する。衣服は体が傷つかないように守る働きをする。髪の毛は頭への衝撃を緩和する働きがある。防止やヘルメットをかぶればそれだけ衝撃は減る。このように、衣服は契約の中にいる者が神によって守られることを象徴している。
それゆえ、新約時代の祭司であるクリスチャンにおいても、礼拝の服装が同じような意味を持つということが分かる。
クリスチャンは礼拝の服装において「贖いと栄光と被保護」を表現すべきである。
ただし、旧約聖書と新約聖書において違いがある。
それは、契約の主としてキリストが顕現された新約時代において、男性はキリストを象徴し、女性は教会を象徴するようになったからである。パウロは結婚はキリストと教会を象徴しているといい、礼拝の服装において、このことを象徴すべきだと述べている。そして、それは、とくに、被り物について述べられている。
パウロにおいて、被り物は、「被保護」を象徴するものと位置付けられている。それゆえ、キリストを表す男性は、被り物をつけるべきではなく、教会を表す女性は被り物をつけるべきとされている。
長い髪は、神がキリストに保護される教会を表すために生まれながらに女性に備えてくださった被り物であるとされており、それゆえ、礼拝において、女性は長髪であるべきという。もし短髪の女性がいるならば、被り物をつけるべきであり、被り物をつけていなければ、それは丸刈りと同じことという。
このように、聖書は、「服装はどんなんでもよい。本質が大切だから」とは言っていないのである。
ギリシャ思想に影響された教会は、物質を切り捨て、それゆえに、象徴を切り捨ててきた。それゆえ、礼拝を回復したいと考えている人々は、象徴について聖書から学ぶべきである。
万物は、神を象徴している。この世界は、象徴の集合である。
それゆえ、我々も、象徴を通して神の栄光を表現すべきである。
2003年05月12日
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