決疑論の復活を

 

農家が一年かけて育て、さて収穫だ、という農産物を、ごっそりと根こそぎ盗んでいくという盗難事件が起こっているという。

老人に電話をかけて、「おれおれ」と身内のふりをして金を振り込ませる詐欺も横行している。

水道局員のふりをして、老人の家に上がりこみ、財布から盗んでいく連中もいる。

わけのわからないところから電話があり、返事をすると自動的に番組につながり、その法外な額の使用料金の請求書を勝手に送りつける詐欺行為も広がっているという。

以前私がHPにおいて予想したとおりの世相になった。

進化論によって育てられた世代は、「この世がすべてだ」と教えられているから、神を恐れるということを知らない。

決疑論(*)がニュートンの理神論によって殺されてから、「善行→祝福」「悪行→刑罰」という因果律的思考が崩壊した。それ以降、キリスト教の中からも契約的因果律が否定されてきた。

「17世紀後半にニュートン主義がいかなる抵抗もないままに急速に広がり、18世紀の学界を完全征服したのと平行して、プロテスタントとローマ・カトリックのいずれからも決疑論が消えていった。」(Gary North, Gary North’s News letter, Free Book Just Posted! , Jul., 5, 2003)

決疑論を復活させたのは、ラッシュドゥーニーの『聖書律法綱要』である。

「ラッシュドゥーニーの傑作『聖書律法綱要』(1973)は、忘れ去られていた決疑論を復活し、聖書的原理を現実世界における意思決定に適用せよ、とクリスチャンに呼びかけたのである。」(Ibid.)

ラッシュドゥーニーは、300年もの間、クリスチャンが続けてきた自然法との妥協を排して、聖書律法だけに依存した。

「リチャード・バクスターが1673年に『クリスチャン人名録』において、聖書と自然法のカテゴリーを融合させることによって実現しようとしたことを、ラッシュドゥーニーは、コーネリアス・ヴァン・ティルの前提主義弁証論を用いて、自然法理論抜きで行おうとしたのである。彼の目標は、クリスチャンを訓練して、自分が任せられている領域に聖書を適用できるようにすることにあった。」(Ibid.)

聖書律法に基づく決疑論の復活により、世の様々な領域に聖書の原理を適用し、キリスト教が聖書という無謬の土台の上に文明を再建していく以外に、世界を回復する方法はないと思う。

このまま日本をアメリカ並みの犯罪大国にしてもよいだろうか。

まず、クリスチャンが、生活の様々な領域に聖書的原理を適用し、お手本を示すことだと感じるのである。



(*)一般的道徳規則の解釈に対する事例分析的手法。決疑論はまず、ある所与の一般的道徳規則がいつどのように適用されるべきかについての模範的な事例から出発し、次に、その規則の然るべき適用の仕方がそれほど明らかでない事例―― たとえば、嘘をつくことが、僧侶が懺悔によって知らされた秘密を守るための手段であるような事例―― に対し、類推を用いて推論する。 (The Cambridge Dictionary of Philosophy, p. 107)――http://www.fine.bun.kyoto-u.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/casuistry.htmlより引用。


 

 

2003年07月11日

 

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