聖書を批評する人は聖書を理解できない
聖書の中で「ひれ伏す」という表現は、相手を尊敬していることの現われである。
礼拝にも使用されるし、礼儀にも使用される。
「アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。」(創世記24・52)
「彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。」(創世記18・2)
頭は人間の頂上に位置し、自分の本体の部分である。その本体の部分を、相手よりも低い位置に置くということは、すなわち、相手のことを自分よりも高位であると認めているということを意味する。
英語の「理解する」を意味するunderstandという言葉の語源は、文字通り、underは「下に」であり、standは「立つ」である。つまり、理解するには下に立たなければならない、ということを意味しているのである。
高ぶった気持ちをもったままで聖書を批判的に読む人々は、聖書の上に立っているのであるから、理解できないのである。
聖書は神の御言葉であり、それゆえに、人間は聖書の上には立てない。
聖書を読む人々のまずしなければならないことは、聖書に対して頭を垂れることである。聖書の位置よりも自分の頭を上げないことである。
自分の経験やら意見やら主張やらを捨てて、聖書の前にへりくだって、虚心坦懐に読むことである。
そうすれば、本当の意味において聖書をアンダースタンドできるようになるだろう。
2003年11月27日
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