自分を知恵のある者と思うな
私の知人K氏は、S会という団体に属していたが3年ほど前に除名された。
除名理由は、「預言をする」ということにあった。
「預言をする人は、我々の団体には2人は要らない。我々の団体の預言者はトップの
○○先生だけだ」とその団体の幹部は言った。
聖書は、「クリスチャンは、みな預言者である」と述べているので、「預言をする」
という理由で人を除名することはできない。
もし除名できるというなら、聖書の「私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさ
い」(1コリント14・39)という個所をどう解釈するのか?
「預言する」ということで除名に値するという団体は、この個所を矛盾なく説明でき
なければならない。もしそれができなければ、その団体は、聖書に忠実な僕を追い出
すことになるのだ。聖書に忠実な信徒を追い出すものは、もはや教会ではない。
聖書によらない理由で人を除名する団体は、カルトである。
K氏を追い出したような団体は、キリスト教ではなく、○○教(○○は教団の祖の名
が入る)である。
このような団体から除名されても、痛くも痒くもないので、気にすることはない。
しかし、今日、いわゆる教会と呼ばれる団体には、このカルト教団と似たものが多
い。牧師が教祖のようになっているからである。
私を追い出した団体も同じである。除名とまではいかなかったが、ほぼ除名同然の扱
いだった。
追放理由の一つは、「大宣教命令は必ず成就する、と教えた」ということにあった。
これらが、誤謬であるということは、聖書を読んだことがある人なら誰でも理解でき
るはずである。「すべての国民を弟子とせよ」と命じられたら、「すべての国民を弟
子とできる」と考えるのは当然ではないか?
どこがおかしいのか?主の命令を真摯に受け取ることが罪なのか?
このようなとんでもない理由で人を除名する団体は、その団体そのものがカルトに
なっているのである。だから、そこから除名されても痛くも痒くもないのである。気
にすることはない。
今の教会がカルト化している根本的な原因は、ただ一つ。「聖書だけを権威としてい
ない」ということにある。彼らは、いわゆる「現在のクリスチャンの常識」を権威と
しているのである。
どんなに人の目に良いものに見えても、どんなに自分の肌に合っていても、聖書を最
高権威としなければ、我々は容易にカルト信者になり得る。
たとえば、「今日、奇跡も預言も神癒も悪霊もない」という教えを唱える教会につい
て見てみよう。
これは、平均的な常識的な日本人にとっては、「分別がある」と見える。そして、
「悪霊追い出し」などを盛んに唱えている人を見ると、オカルトにかぶれている、と
か、おかしな意見に落ちたとか見えるだろう。
なぜならば、我々戦後の日本人が受けてきた義務教育なるものは、「霊的世界を捨象
する世界観」に基づいているからだ。しかし、この霊的世界を捨象する世界観を作っ
たのは、聖書ではなく、カントである。
我々の平均的、常識的日本人の「良識」を形成した日本の義務教育は、無色透明では
なく、カントによって味付けられているのである。
だから、そんなものを判断基準としてはならないのである。
この「霊的世界を捨象する世界観」が教会の中に侵入したために、キリスト教は、キ
リスト教ではなくなり、教会は「平均的良識的日本人の社交場」に過ぎないものに
なったのである。
霊的戦いを訴えないから、教会はサタンにいいように操られ、霊的な力もパッション
も感じられなくなってしまった。
我々は、自分の常識や良識、コモンセンス、感覚などを当てにしてはならないのであ
る。
「自分を知恵のある者と思うな。」(箴言3・7)
自分の知恵を頼ると、知らないうちにカルト信者になるから注意が必要だ。
2003年10月31日
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