反抗的な人間は反抗される
不思議な現象だが、自分が牧師に対して行ったことは、自分が牧師になった時に自分にも起こることが多い。
たとえば、自分が牧師のもとに行って、相談したら、自分が牧師になった時に、そのような人が現われて自分に同じことをする。
「いやぁ、相談なんて普通にあることじゃないですか」というかもしれないが、相談された本人は気づくものである。
「あれ?これは、以前自分がやったことじゃないか?」と。
こういった不思議な現象には意味がある。
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。」(ヤコブ2・13)
つまり、もし自分が他人の必要に答えず、見殺しにするようなことをしたら、自分が困った時に、神は自分に対して自分がやったのと同じことをされるのだ。
だから、信徒の時代に牧師にたてついて、牧師を困らせた人間は、牧師になった時にそれ相応のことを信徒からされる。
ある秩序において権威に反抗し、権威を困らせた人間は、秩序のトップに立った時に、下の人間から仕打ちを受ける。
「銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。」(2テモテ4・14)
神は自分が蒔いた種を必ず刈り取らせる。だから、種を蒔いた時に悔い改めるべきなのだ(*)。
(*)しかし、ひとたびこのような生意気なことをすると、たとえ悔い改めても、自分が望まない結果になることがしばしばだ。恐らく、それは、神が我々に、権威に対して無礼をしないように、骨の髄まで悟らせるためなのだと思う。
2003年11月24日
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