責任は自分で取ろう
クリスチャンでも、輪廻を信じている人がいて時々びっくりすることがある。
しかし、輪廻は、人間の行ないに対する責任を取らせないので、間違った教えである。
自分が行った悪行の報いは次の生で受けるという。
私は、前世をまったく覚えていない。
仮に、私が「前世のゆえに」ハンディを負って生まれてきたとしても、私は前世をまったく覚えていないので、後悔することも、反省することもできない。
これは、実質的に「自分が行ったことではないことで刑罰を受ける」わけであるから、不合理である。
聖書は、はっきりと、「自分が蒔いた種は自分が刈り取る」と教えている。
「神は侮られる方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」
自分の前世が誰であるにせよ、自分とはまったく関係がない。自分と関係がない人が行った行為の報いを自分が受けなければならないとは、まことに不条理であるが、同時に、自分が今行っていることの責任を自分自身が負うことがないわけでもあるから、荷が軽くなる部分もあるのである。
輪廻思想が人気があるのは、ここらあたりにあると思う。つまり、責任回避の誘惑である。
これは、アダムが罪を犯した時からずっとまとわりついている誘惑の思想である。
「私が悪いのではなく、このエバが…」という責任転嫁は人間の第2の本性である。
こういう意味において、輪廻思想と、現代の心理学は似ている。
際限なく自分の過去を分析して、責任を自分ではなく、他人の行為に負わせようとする。
問題は、罪にある、と聖書は述べているから、このような自己分析を一生やりつづけても解決は絶対に得られない。
我々は、素直に自分が罪人であることを認めて、悔い改める以外に健全な解決法は存在しないのである。
過去に犯して心にひっかかっていることについては、素直に認めて神と人に謝るべきだ。
それは、心理カウンセリングで、他者とか生い立ちとかに責任転嫁してもはじまらない。まして、来世に責任をずれこませようなどもってのほかである。
2003年11月15日
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