キリスト教の血なまぐささについて

 


本日の朝日新聞に載っていたが、従軍慰安婦の裁判において、日本軍の元兵士が次のような内容の証言をした、とあった。

「輪姦した中国女性を全裸にして連行し、途中で、乳飲み子をがけの下に放り投げたら、その女性も後を追って身投げした。恐らく死んだだろう。」

このような証言は、我々の信仰を大きく揺さぶるものである。自分と同じ民族の人々がこのような蛮行を行ったということは、自国に対する愛国心や自尊心を大きく傷つける。

しかし、戦争とはこのようなものである。どの民族でも同じようなことをやってきたのである。戦争は人間がアダムにおいて堕落したことをまざまざと見せつける。

もしお花見をして、食べたものや飲んだものをそのままにして帰ったら、そのお花見の場所はどうなるだろうか。散らかったままである。

その場所をきれいにするには、誰かが掃除しなければならない。

どの民族でも、どの人間でも、掃除が必要である。誰かが掃除をしてくれなければ、自分の人生や歴史において散らかした罪の処理は終わらない。

人格的な被造物は、絶対に責任から逃れることができないからだ。

立正佼成会は、「キリスト教は血なまぐさいから嫌いだ」という。

しかし、キリストの犠牲の血は、どうしても流されなければならない。

人間の罪が血なまぐさいものである以上、解決の方法も血なまぐさいものでなければならない。

 

 

2003年11月18日

 

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