「見せしめ」は、聖書的な手段である

 

日本も毎日殺人事件が起きる国になってしまいました。

殺人に対する最善の抑止策は、死刑です。

私たちも、自分の経験からもわかるでしょう。

「これを行えばどういう結果になるか」と振り返れば、やってはいけないことをやめるきっかけになりますよね。

聖書は、刑罰の抑制効果を認めています。

「罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。」(1テモテ5・20)

「見せしめ」は、聖書的な手段なのです。

みんなの前で責められている人を見ることによって、他の人々は、自分の行動を真摯に反省するようになります。

殺人に対して死刑が下されないということは、人の命の値は、懲役数十年と等しいと証言していることと同じなのです。

人の命は、命によって償わせるべきです。

熊谷の男女殺傷事件の主犯に死刑判決が下らなければ、この国は終わりです。

口封じのために、無実の人々を拉致して死傷させるなど、人間の命だけではなく、社会や国家制度そのものをなめています。

殺人とは、神がお立てになった権力構造そのものに対する侮辱であり、革命行為です。

なぜ神がイスラエルの人々に殺人者への処刑を命じられたのか、考えてみる必要があります。

しかも、神は、社会の構成員自身に処刑に加わるよう命令されました。

イスラエル人は、処刑される者に向かって石を投げなければならなかったのです。

自分が処刑に参加することによって、人々は、法を破ることの恐ろしさを実物教育されます。

かつては教育刑で人を更生できるとしていた中国は、今日では公開処刑すらしています。

なぜ公開処刑が必要なのか?なぜ社会の構成員が処刑に参加しなければならないのか?

人間には「見せしめ」が必要だからです。

神は、他人が裁かれるのを人々に見せようとされているのです。

石打ちの刑などと聞いて、「野蛮だ」と切り捨てる前に、「なぜ神はこのような処刑方法を御民にお与えになったのか?」と考える必要があります。

それとも、私たちは神より賢いのでしょうか?


 

 

2003年08月24日

 

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