フルプレテリズムと大宣教命令

 

フルプレテリズムを採用すると、様々な聖書個所を合理的に解釈することができなくなる。
その一つが、御国の発展の個所である。

御国はからし種やパン種のように拡大すると言われている。

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」 (マタイ13・31-33)

フルプレテリズムが言うように、もし御国が完成しており、「すべてのことが」 すでに 「起こってし」(マタイ5・17)まっているのであれば、これらのたとえは、我々にとっていかなる意味もないのである。

大宣教命令も、同じように効力を失う。

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国民を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」」(マタイ28・18-20)

フルプレテリズムは、この「世の終わり」を「時代の終わり」と解釈するのである。

つまり、旧約時代の終わりを表すというのである。

もしこの解釈が正しいとすれば、大宣教命令は、旧約時代にのみ通用する教えとなり、我々の宣教の命令とは無関係だということになる。

先の御国の拡大のたとえと合わせて考えると、フルプレテリズムによれば、「現代のクリスチャンに宣教や御国拡大を教えている個所は存在しない」ということになるのではないか?

もしこの指摘が正しければ、これは、恐ろしい考えである。これまで2000年間、教会は、世界宣教は命令されているのだ、という勝手に作った教えに踊らされていたということなのだ。

もうお分かりだろうか。

もし、新約聖書終末預言が旧約聖書の時代の終焉のみについて語っている書物と考えることが正しいならば、新約聖書に含まれる福音書や手紙を受け取った直接の読者以外の読者には、未来に対していかなる動機付けも与えられないということなのだ。フルプレテリズムは、紀元2世紀以降の読者を、歴史観なしに取り残すことになるのだ。紀元2世紀以降の読者は、聖書を現代的意味を持たない「古典」として読むことを強制されるのだ。

たとえ、フルプレテリストが、「御国は拡大する」と口をすっぱくして語ったとしても、むなしい慰めにしかならない。それを促す文献が存在しないからだ。聖書がすべて紀元1世紀について教えているのであれば、我々には、「なぜ伝道しなければならないの?」「なぜ文化をキリストのために獲得しなければならないの?」という疑問しか残らない。答えは一切ない。聖書には、紀元2世紀以降の読者を励ますようなことは一切記されていないからだ。「キリストは、時代の終わり(紀元70年)までいっしょにいてくださるが、それ以降は、不明である」ということになるからだ。

これが本当に正しい教えと言えるだろうか。我々を、単なる「古典愛読者」に変えるような教えに正当性があるだろうか。

マタイ28章20節の「世」を表す原語は、αιωνである。αιωνは、必ずしも「時代」を表さない。γενεαは「時代(30-33年)」という意味であるが、αιωνは、「永遠」をも表す言葉である。

「αιων――もともと一定の時間的スペースをあらわす語。1.(人の)一生一代、世代;歴史上の一つの時期、時代、特に未来の時代に対して現在の時代、この時代をあらわす;いまの世代。(この)世界 2.永遠へと無限につながっている一連の時代の一つ、の意から転じてこのような時代の無限の連続、永遠」(織田昭「新約聖書 ギリシャ語小辞典」)

「世」を「時代」と解釈すれば、マタイ28・20は、「見よ。わたしは、旧約時代の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 となるが、「永遠」と解釈すれば、「見よ。わたしは、永遠に、いつも、あなたがたとともにいます」となる。

どちらが、「あらゆる国民を弟子としなさい」という命令に相応しいだろう。

それとも、紀元1世紀に「あらゆる」国民は弟子化されたのだろうか。パウロの異邦人伝道により、大宣教命令は紀元1世紀に成就したのであろうか。それとも、彼の働きは、代々、その弟子たちに受け継がれていったのだろうか。

フルプレテリズムを採用するならば、世界の弟子化と再建を目指すクリスチャンは、聖書本文のバックアップを受けられない。

これでは、教会史を貫く聖霊とクリスチャンの精力的活動を説明できない。

フルプレテリズムは、聖書本文からのプルーフも、教会史からのプルーフも得られない謬説であると思われるが、いかがだろうか。


 

 

2003年08月04日

 

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