まだ疑似科学と呼ぶのか
相変わらず、無知をさらけだして、創造科学を疑似科学と呼んでいる人々がいるみた
いだが、近代科学の起源は、「自然を第二の聖書と見る」プロテスタント・キリスト
教にあったのであり、現在のような、実証主義の科学が世界を徹底支配したのは、た
かだか100年くらいの歴史しかないのである。
帰納法によって得られる知識だけを正当な知識としよう、というのは、一つの宗教的
選択であって、それが万古不変の真理の方法であるなどということは、誰も証明でき
ないのだ。
実験観察などによって得られる知識は、厳密に言えば、その実験で行われたごく限ら
れた条件のもとでの知識でしかない。その知識を法則として普遍化できる、という考
えは、科学そのものが否定している「ドグマ」であって、誰もそれが正当であると証
明できない。
たしかに、デカルト流の認識論では、それが許される。しかし、経験主義は、それを
否定した。
A研究所のB研究室において、Cという時間に行われた、Dという現象は、「A研究所のB
研究室において、Cという時間に行われた、Dという現象」以外の何物でもない。
それを、「E研究所のF研究室において、Gという時間に行われた、Hという現象」と同
じ結果があったとしても、それは、たまたまそうであったかもしれないわけで、DとH
を関連付け、それから法則を導き出す作業にいかなる正当性があるのか、と問われた
わけだ。
「いや、このような結果は数万回繰り返して得られたわけだから…」というかもしれ
ないが、数万回そうであったからといって、数万一回目がその法則によって起こると
誰が保証できるのか?
「いやいや、実際、この法則を適用して、応用された機械があるし、実用化されてい
るから…」
「実用化されているとか、応用で有効だというのは、これまでのところ、ということ
でしょう?これから先、同じ効果が得られるとどうして主張できるのか?」
「いやいや、もしそんなこと言っていたら、何もできないでしょ。そこからは経験則
を適用できるのだ。」
「あれっ?経験則ってのは、あなたが批判している擬似科学と同じ方法じゃないです
か。あなたは、帰納法的に証明されていない信念=ドグマを前提とする科学は疑似科
学だといいませんでした?」
2003年11月4 日
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