灰色を白と黒に

 

「受けるより与える者のほうが幸いです。」

豊かに献金する人は、豊かに祝福される。
これは、聖書の主要な教えの一つである。

最近、ある兄弟から「富井さんのお祈りのおかげで仕事が祝福されています」と言われた。この兄弟は、毎月多くのお金を献金して私の働きを支えてくれているので、天の恵みが豊かに下っているのである。私も毎朝この兄弟のために格別の祝福が下るように祈っている。

また、別の姉妹からも最近、「富井さんのお祈りのおかげで、神様に守られているのを感じます。」と言われた。たしかに、この姉妹のためにも祝福を祈っているのである。

(ちなみに、会員の方々全員のために毎日祈っております。)

霊的な世界の法則は、単純である。

「御国のために気前のいい人は、豊かに祝福される」という原則である。自分のことしか考えない吝嗇は、どんどん貧乏になり、不幸になる。

そして、さらに、聖書の原則は、「金持ちは、多く与えられ、貧乏人はますます貧乏になる」という原則である。

「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13・12)

これは、貧乏人がだめということではなく、貧乏になる性格や生活態度を直そうとしない頑固者は、祝福を奪われ続けるので、ますます貧乏になり、金持ちになる性格や生活態度を備えている人は、祝福を受け続けるので、さらに豊かになる、ということである。

資本主義は、このような原則を反映しやすい制度である。自分の性格や経営姿勢を変えようとしない頑固者の社長は、商売において顧客のニーズに応えることができないので、ライバルに敗け、負け癖がついて、敗者の下降スパイラルの中に入り、ついに倒産する。

自分の態度や経営姿勢を変える柔軟な経営者は、顧客のニーズに応えるように努力するので、ライバルに勝利し、勝ち癖がついて、勝者の上昇スパイラルに中に入り、どんどん金が集まってくる。

勝者は、資金が豊富にあるので、信用もついて、その上にますます金が集まるが、敗者は、資金がないために信用を失い、さらに金が逃げていく。

聖書の世界観とは、自己責任の世界観である。

そして、自己責任の世界観とは、両極分化の世界観である。

灰色は、裁きによって、次第に白と黒に分かれる。

「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3・12)

裁きがない時は、麦と殻は未分離である。しかし、裁きが行われると、麦と殻に分けられ、麦は倉に収められ、殻は火で焼かれる。

あいまいな灰色は、次第に消えて、白か黒のどちらかになる。

歴史は、このような過程である。以前の時代において灰色に見えていた教えが、時間の試練を経るにつれて、次第に神に属するものであるか、サタンに属するものであるかが明らかになる。

白と黒が、次第に灰色になる、というのは、共産主義の世界観である。

共産主義の社会とは、努力する者は奪い取られ、努力しない者が得る社会である。その目標は、金持ちも貧乏人もない「平等の社会」である。だから、共産主義は、「反創造主義decreationism」と言われるのである。

また、白と黒が、次第に灰色になる、というのは、自然主義の世界観でもある。

「自然の世界には、エントロピーの法則が働いている。白と黒は次第に混ざり合って灰色にならざるをえない。」というのである。

この世界観の決定的な間違いは、「宇宙は、内部において自己完結しており、外部からの負のエントロピーは一切注がれない」と信じているところにある。

しかし、聖書は、神の裁きは、「負のエントロピー」である。それは、宇宙の外部からの働きかけであり、混ざり合った灰色を白と黒に分ける働きである、と述べている。

神は、創造の際に、「分離」を行われた。光と闇をわけ、陸と海を分け、天と地を分けられた。神は、混沌から秩序を生み出されるお方である。

人間の労働とは、神の創造作業の模倣であり、分離の作業なのである。地中深くに埋まっている石油を掘って(分離)、それから不純物を取り除いて純化し(分離)、灯油にしたり、ガソリンにする。

科学者は、混沌とした現象を分析し(分離)、そこから法則を抽出する。

人間は、労働を通じて、この世界に負のエントロピーを注入し、世界を秩序化するために、創造されたのである。この分離を通じて人間は神の栄光を現すのである。聖会において、「主イエスを賛美し、拍手をしましょう」などということで栄光が現われるわけではないのである。

神の栄光は、文明建設の中で明らかにされるのである。

我々の一世代前の指導者たちは、社会主義の世界観から完全に決別できていないので、裁きのない世界を容認する傾向がある。

努力しない者にあわれみをかけ、努力する者を罰する政策を支持している人が多い。政府の市場介入を是とする人が多い。

神の御心の社会とは、一つ一つの行動に裁きをつける社会である。競争のない社会ではなく、競争によって、個人の努力や能力に白黒をはっきりとつける社会である。

責任を追及されない特権階級を廃止し、万人が互いに誰かに頭を下げ合う社会こそが、神が望んでおられる社会である。

小売店は顧客に頭を下げ、問屋は小売店に頭を下げ、製造元は問屋に頭を下げ、製造元の社員は管理職に頭を下げ、管理職は株主に頭を下げ、株主は市場の審判を受ける。

今の社会のように、誰からも罰せられないキャリアという特権階級を作ると、これらの少数の者たちの無責任によって、社会全体がおかしくなってしまうのである。

誰からも罰せられないのは神だけである。

神は、法を超越しているからである。

被造物のいかなる者にも、このような地位を与えてはならない。すべての人間は法の下にいるので、刑罰が必要である。

生活のあらゆる場において、灰色を白と黒に分けることこそ、人間の歴史的使命であることを自覚しよう。



 

 

2003年08月12日

 

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