クリスチャンの子弟を契約のメンバーとして扱うべきである

 


幼児洗礼否定説の最大の弱点は、「自分の子供の契約的立場を確立できない」という
ことにあります。

洗礼は、キリストの契約の中に入ったことを象徴します。
つまり、受洗した人は、生まれながらの古い自分を捨てて、復活し、新しい人にな
り、キリストにつなぎ合わされて、キリストの体の一部になります。

それゆえ、彼(または彼女)は、キリストとともに王であり、祭司であり、預言者で
す。彼は、キリストとともに、この世において、また、来るべき世において、神から
の相続を受けます。

もし、子供に洗礼を授けることができない、また、子供に聖餐を授けてはならない、
というならば、その人は、自分の子供を、「契約的に宙ぶらりんの状態」に置くこと
になります。

洗礼や聖餐を授けないということは、「私の子供はキリストの契約とは無縁である」
と宣言していることと等しいからです。

幼児洗礼否定論者は、それゆえ、自分の子供を「まだ滅びの状態にある人」とみなし
ているのです。

子供が滅びの状態にあるにもかかわらず、子供に対して親の権威を行使して、子供に
「聖書に基づく養育や教育」を行うならば、矛盾したことを行うことになります。

聖書が命じる教育は、すべて「契約的教育」です。

つまり、子供を「契約の中にいる者」として教育を授けよと聖書は命じているので
す。

「子供を行く道に相応しく訓練せよ」と言う時に、「相応しい」とは何でしょうか。
もちろん、「契約の中にある者として相応しい」という意味です。

聖書は、一貫して、「クリスチャンの子供も契約の中にいる」と教えています。それ
ゆえ、その立場に相応しく洗礼を授け、聖餐を授けて、外面的にも契約のメンバーと
して扱うべきです。


 

 

2003年10月28日

 

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