銃規制問題
バトンルージュでの誤射事件以来、アメリカにおいて銃規制運動が盛んですが、アメ
リカ人は銃を奪われることに神経質です。
なぜならば、アメリカは開拓の国であり、銃は自分を守るために持つことのできる
「正当な自己防衛権」を象徴しているからです。
ラッシュドゥーニーは、銃規制に反対していました。日本人から見ると、「クリス
チャンがなぜ?」と感じられるのですが、「犯罪者が銃を所持して、こちらが銃を所
持しないというのはおかしい。銃規制は一般市民を丸腰にし、犯罪者に力を与えるこ
とだ」といいます。
日本のように、銃規制が徹底していて、銃の輸入が厳しく監視されている場合には、
銃規制は当然と思われますが、あれだけ銃が氾濫している国において、市民から銃を
取り上げることは、ラッシュドゥーニーの言うように「犯罪者を利する」状況を作っ
てしまうでしょう。
それから、もう一つ考えなければならないのは、銃の所持が、アメリカという国の建
国の理念に大きく関わっているという点です。
アメリカは、歴史的に「個人の自立と自由」を尊重する国です。
個人の自由を守るためには、政府に依存することはできない。政府に依存すること
は、個人の自由の制限につながる、と考えています。これは、アメリカに入植した
ピューリタンたちが、イギリス本国の信仰規制を嫌って移住したという背景があるか
らです。
日本の場合、「国家が個人の安全と幸福を保証してあげなければならない」という考
えが支配的です。そのため、シートベルトやヘルメットの着用が義務化されることに
異議を唱える人はほとんどいません。
警察は、人に危害を加える恐れのあることを規制するだけではなく、自分自身に危害
を加える恐れのあることをも規制しようとします。それが、「国家や共同体の愛」だ
と。
しかし、このような「世話好き国家」というものが、クセ者だということをアメリカ
の建国者たちは見ていました。
建国者たちは、「愛」を口にしながら、個人生活の細部にまで干渉し、支配しようと
する為政者の傾向に厳しい目を向けました。
それゆえ、「法律とは、為政者の干渉から個人を守るために存在する」という理念に
基づいて国づくりが行われたといえると思います。
アメリカの国づくりは、「人間は罪人であり、機会があれば、その支配欲を無限に拡
大するものである」という人間不信に基づいて進められました。
それゆえ、アメリカの本来の建国の理念は、「個人の権力」対「国家の権力」という
対立に基づいていたと考えられます。
ですから、「国家の権力が肥大化するのを防ぐためには、国家に依存してはだめだ。
国家に依存せず、自分のことは自分で守る」という自己責任の原則はもちろんのこ
と、それだけではなく、「銃規制は国家権力による個人権力への勝利を意味する」と
いう考え方がアメリカ人の銃規制反対の中にはあるのではないかと私は考えていま
す。
つまり、ある意味において、武装解除は、敗戦国に対して戦勝国が行うものであり、
国民に対して武装解除を求めることは、国家権力が個人権力に勝利したことを意味す
る、と彼らは考えているのではないか。
日本では、豊臣秀吉において国家統一されてから、刀狩が行われ、それ以降、一般民
衆は武装解除され、「勝者としての国家と、敗者としての一般民衆」という構図がで
きていて、そのため、「お上には逆らうな」的な発想が日本人の常識となった。度重
なる一揆も、この支配構造を覆すには至らなかった。
西欧においては、市民革命が、「一般民衆は、為政者の首をもすげ替えられる」とい
う経験の中で、個人の間に「政権担当者としてのプライド」を生み出したが、民衆の
力が圧倒的に弱いロシアや日本では、このようなメンタリティーが文化の中に定着し
なかった。
アメリカの銃規制反対運動には、「国家が自分のおるべき所を捨てて、市民に対して過大
な要求をしてきた場合、血を流してでも戦うぞ」という気概が含まれているように思
えるのですが、みなさんはいかがお考えでしょうか。
2003年07月25日
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