復活のからだとは?
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先ず、カーティス牧師はロジャー・ウィリアムスの肉体の例を上げて、多くのクリス
チャンが信じている復活に対しての疑問を呈したのであることはお分かりだと思いま
す。
ウィリアムの例を実際に上げているのはディスペンセーショナリストの神学者テニー
です。
彼自身がそれを悩んでいるのです。
富井先生は文字通りの肉体の復活を信じておられないのでカーティス師の対象とは
なっていません。
私は以前、復活の時は何歳の肉体に復活するのだろうかという質問を他のクリスチャ
ンと語ったり、メッセージで語られたのを聞いた記憶があります。
そして、イエスさまが33歳で死なれ、復活されたので私たちも33歳の肉体に復活
するのだと考えていたと記憶しています。(赤ちゃんの時に死んでも33歳になるん
でしょうかね?)
このメッセージは特に字義解釈をするディスペンセーショナリストの復活観に対する
反論でもあります。
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字義的解釈をしない人々への反論でないことは分かりますが、もしフルプレテリスト
の従来の復活説に対する批判がこのような字義的解釈をする人々への反論でしかない
ならば、意味がないと述べたものです。
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もうひとつ、富井先生は「肉体」ということばを用いておられますが、ギリシャ語は
ご存知のように「ソーマ」で日本語の聖書も「肉体」ではなく、「からだ」と訳して
います。「肉体」と「からだ」の区別をしておくことはとても大切です。
聖書は生身の肉体に関して使徒行伝19章12節で「パウロの身」として「クロー
ス」ということばを用いています。「肉体」の復活ならばならば「クロース」を用い
ても良かったわけです。
フルの立場は「肉体」の復活を否定するものの、「からだ」の復活を否定するのでは
ありません。
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらさ
れ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強い
ものによみがえらされ、血肉の『からだ』で蒔かれ、御霊に属する『からだ』によみ
がえらされるのです。血肉の『からだ』があるのですから、御霊の『からだ』もある
のです。」(1コリント15:42〜44)
上記のように血肉の「クロース」ではないし、御霊の「クロース」ではありません。
「ソーマ」は「フォーム」という感覚で受け止めたほうがいいでしょう。
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すでに述べましたように、「肉体」の復活を否定するならば、
(1)イエスは「魚」を食べ、「手足の傷に触れよ」と命じられたのをどう解釈する
のか。すなわち、イエスの復活体は物質世界と何らかのつながりがあると見なければ
ならないが、カーティス師はこれをどのように見るのか。
(2)イエスは、クリスチャンの「初穂」として復活されたというパウロの言葉をど
う解釈するのか。イエスが触知できる体でよみがえったのであれば、同じようにクリ
スチャンも触知できる体によみがえると考えることはできないだろうか。
という疑問に応える必要があります。
たしかに、「血肉の体」は御国を相続できない、とパウロは述べています。
「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続でき
ません。」(1コリント15・50)
ですから、復活体は「朽ちる」「血肉のからだ」ではないということはわかります。
しかし、イエスがそうであったように、物質世界とのなんらかのやり取り(食べる、
触る、触られる)ができる体なのですから、血肉でできていないにしろ、触知するこ
とのできない「霊」ではないことは明らかです。
しかし、カーティス師は、復活はすでに紀元70年に起こったと述べているのですか
ら、現在死んだクリスチャンは、「食べたり、触ったり、触られることができる体」
を持っているということになります。そして、それは決して「霊」ではないわけで
す。
ところが、カーティス師の発言を見ると、それは「霊」であると述べているようなの
です。
「私たちは不死を着せられ、肉体的に死んだ時に不死のからだを着せられるのです。
クリスチャンとして私たちは神の臨在の中に生きています。肉体の死において、私た
ちは単に肉を脱ぎ捨て、霊的領域に住むようになるだけなのです。」
「肉体的に死んだ時に不死のからだを着せられる」とありますから、死んだ人には
「からだ」が与えられるらしいのですが、しかし、「肉体の死において、私たちは単
に肉を脱ぎ捨て、霊的領域に住むようになるだけなのです。」と述べているので、
「霊」だけになったかのような印象を与えます。
「霊的領域」とは「物質的領域」と対照的に用いられている言葉と解釈できますか
ら、「霊的領域」に「食べたり、触ったり、触られることができる体」が存在できる
はずはありません。
それとも、「霊的領域」に「食べたり、触ったり、触られることができる体」は生存
可能なのでしょうか。
2003年06月23日
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