これからの芸術
私は、「芸術」とは「神の似姿の回復」だと考えています。
神とその創造が美しいように、我々と我々の作り出すものも美しくなることを目指すのが芸術だと思います。
そのため、現代の抽象画のように、人間の主観によって世界を再構成するというような思想に基づく芸術は芸術ではなく、あくまでも、神の解釈の追解釈者として、御言葉により世界を再構成することであると考えます。
だからといって、抽象画を描く人々の才能やそのすべての創作を無価値と切り捨てるつもりはありません。抽象画の「混沌を通しての構成美」というものも、やはり、神の創造の美の法則にしたがっているし、価値を持ち人々から評価されるためには、したがわざるを得ないからです。(したがっていなければ、ただの落書きです。)
たとえば、私は、ウェザー・リポートというジャズバンドが好きです。
ジョー・ザビヌルのピアノとウェイン・ショーターのサックスは、不協和音の連続で、混沌・ランダムです。
ジャコ・パスのベースはそれに無法則的にからまってきます。
しかし、そこに奇妙な調和が生まれます。
ラッシュドゥーニーやオットー・スコットは、不協和音はクリスチャン的ではない、とか、言いますが、私は、素直に納得はできません。
ジョン・ケイジのようなまったくのランダムな音から成り立つ実験音楽というものには抵抗があります(どんな楽器を持ってもいいけど、演奏してはならないという「沈黙」の曲すらあります)が、しかし、不調和というものをすべて悪ときめつけることはできないと思います。不調和の色が組み合わさって全体として調和が生み出されることもありますから。
人間は、神の似姿である以上、神の基準から離れることはできないので、どうしても、神の基準にあうように嗜好も変わっていきます。実験音楽の楽団員の多くは、胃腸病になると聞きました。人間の創造された本性と調和しないものは、いずれ切り捨てられていくと思います。最近、抽象画の展示会には人が集まらないとも聞きます。
これからの芸術とは、ただ単に古典芸術に帰るということではなく、抽象画やフリー・ジャズのようなものの中にある価値への理解を踏まえて、聖書的基準によって新しいものを作っていくことではないか、と思います。
2003年05月13日
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