キリスト教とバルト主義5
<B様>
バルトは去年私の教会の牧師を通して初めて名前を知りました。気にしていましたら、図書館で3週間前、「使徒的人間」というバルトについて書いてある本に出会いました。それでバルトに興味を持っているのです。知らないから知りたいと。この本を読んで、益になることが書いてありました。疑問に思っていることに、光をあてられた部分があります。難解ですので理解に苦しむ部分はありますけど、啓示を受けた部分もあります。
聖書もそうではないでしょうか。み言葉に光が当たったとき、初めて理解ができたり、経験したことによって光があたったり、・・・・私たちは生きていますから、主と共に歩きながら、示されながら歩いています。
バルトすべてを肯定するわけではありません。富井さんの書かれたメッセージもすべて肯定できません。それは私が始めて聞くものもありますし、影響を受けて、主の促しにより、本を読んだり、聖書を読みます。
私が知りえた領域の中で今バルトから得たものがあります。多くの人が影響を受けたならバルトは評価できるのではないでしょうか。
よくわかりませんが、私たちは多くのものから、真実のもののみ受け取ることができると思うのです。バルトが得た啓示の中の真実のもののみ、今のキリスト教会は全部、すべて自分と同じ意見ではないと否定したり、裁いてしまう傾向があるように思えます。御霊が内住している私たちは、聖霊により今の自分に必要な啓示を主が示してくれると思うのです。私はそのように主の導きにより成長してきました。私の霊が納得できないものはどんなこと、油注がれた器であろうと、従いません。私に命令できるのは主のみです。
<tomi>
残念ながら、バルトは、正統主義の仮面をかぶった悪魔的な思想です。
それが、正統的な言葉と教理に完全に合致している格好をしているので、それだけ見分けるのが厄介なのです。
私は、正統的ではない書物から正しいものをえり分けるには、相当の神学的な訓練が必要であると思います。
しかし、サタンのねらいは、確実にあり、それに触れるものを知らず知らずのうちに冒していきます。
バルト病にかかると自然と「万人は信仰がなくてもすでに救われている。」という普遍救済主義か、「教会は、法ではなく、恵みを説かねばならない」というような無律法主義に陥ります。
私たちは、一切近づかないほうがよいという類の思想と思います。
2006年3月18日
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