律法はいのちを与えないか?3
<LUKE様>
内なるいのちと外なる御言葉の両輪が必要であることは全く同意です。ただ私は内なるいのち(キリストのいのちですから!)といのちの法則にはかなり信頼(信仰)を置いていますが。
そこでひとつ残った疑問が、いわゆるモーセ律法といのちの法則の関係なのですね。再建主義ではモーセ律法を強調する印象があるのですが。
私は両者の関係をそれぞれMS-DOSとWindowsのように、上位互換であると表現しているわけです。旧約の律法は石の板に書かれたが、それにまさる律法(法則)が心に書かれるのが新しい契約であるとあります:
エレミヤ31: 33―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
これはヘブル書も語るところであり、私はこの心に書かれた律法が、いのちの力によって大祭司とされたキリストのメルキゼデク系の祭司制の律法、すなわちいのちの御霊の法則であると理解しているわけです。で、これは石の律法の上位互換であると。ですから恵みと(モーセ)律法は互いに背反ではありません。
富井さんの主張が誤解を受け易い点は、「律法を適用する」と言う部分のような感じがします。どうしていのちの法則の働いている新約でモーセ律法を強調するのだろうかと。WindowsがあるのになぜMS-DOSなんだというわけです。「モーセ律法の適用」ではなく、「御言葉の適用」と言われると理解し易いわけです。
<tomi>
私は、改革主義と同様に、「心に書き記された律法」は、モーセ律法のことを意味していると考えます。(*)
なぜならば、「天地が滅びない限り、一点一画たりとも地に落ちることはない」からです。
律法という言い方が誤解を受けるならば、「御言葉」と言ってもよいと思いますが、しかし、御言葉とは、律法のことです。
イエスやパウロの言葉は、モーセ律法に準拠しており、それと矛盾する言葉は一つもありません。
今日教会がニューエイジとか様々な異端の教えに毒されている根本的原因は、「法が存在するのだ」ということを見逃しているからだと思います。
個人的なことになりますが、私は、若い頃、ロックギタリストを目指していて、回心して、教会に加わった後でも、生活は、ある意味において普通のクリスチャンに到底及ばないものでした。
ディスペンセーショナリズムの影響を受けた牧師が「クリスチャンは何をしてもいいのです。殺人しても、姦淫してもいい。ただ、すべてが益となるわけではないが。」とさかんに説教していました。
それを聞いて幼いクリスチャンだった私は、「なんだ、何をやってもいいのか。」と思って、大学時代の前半には、半分この世の人的な生活をしていたのです。
ある時、裁きが来ました。これは、説明のしようがないほど恐ろしいものでした。はっきりと神が自分を裁いているということが分かりました。
その時気づいたのです。「なんだ、何をしてもよいというわけではないじゃないか。法が支配しているじゃないか。」と。
神は、罪の生活を嫌っておられる。
神は、罪人を裁かれる。
この時から私は、とうていディスペンセーショナリズムの律法廃棄論を信じることができなくなった。
ラッシュドゥーニーの著作を読んだときに、「神の律法に基づく賞罰」がはっきりと記されていて謎が氷解しました。
ディスペンセーショナリズムは、報いと裁きは来世にあると教えていますが、そうじゃない。この世においても起きる。
だから、法的な考え方をする必要がある。御言葉というよりも法という概念が重要だと思うのは、このような経緯があったからです。
(*)現在、教会には、「心に書き記された律法」を「何かモーセ律法とは別の法」と考えています。この誤謬が、「モーセ律法はすでに廃止された」との言説と合わせて、モーセ律法全廃論が展開されています。
モーセ律法は廃止されていない。これが改革主義の歴史的な主張であり、ウェストミンスター信仰告白ははっきりと伝えています。
しかし、ディスペンセーショナリズムが19世紀の前半に、歴史を7つの互いに排他的な原理が支配する7つの時代に分けて、「律法の時代」と「恵みの時代」を分けてしまい、律法の時代に恵みなし、恵みの時代に律法なし、という考えが、キリスト教界全体に広まってしまった。
私が出た改革主義の神学校でも、説教演習の授業で、私が「律法はロードマップであり、正しい生活に導いてくれる」と説教したところ、「それはおかしい」と講師から言われた。彼は、神戸改革派神学校の卒業生でした。
福音派の教会において、「律法を守ろう」と説教したところ、後で信徒から「律法はキリストの犠牲において廃棄されたのではないですか?」と尋ねられた。
律法は人気がない。
もともと改革派やカルヴァン主義の教会において律法は正しく扱われていたのに、今日このように嫌われるようになったのは、ディスペンセーショナリズムの律法観の影響と考えています。
私は、律法の正しい意義を回復しなければならないと考えています。
2005年10月12日
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