共同訳聖書翻訳の試みは間違いである2


<K様>

 共同訳聖書翻訳の試みは間違いである。を読んで。
 読みやすく解り易いとの評判を聞いて、共同訳聖書は
 発行された当時に購入しましたが、違和感を覚えて
現在は口語訳聖書中心になっております。
 「旧約聖書続編(外典)つき」などと背表紙に表示されて
 おりますが、大いに誤解を生むのでは?と思います。
 これでは外典が正統な聖書であると思われてしまいます。
 また、共同訳聖書を読むと、口語訳聖書と比較して明かに「なんか変だ」
 と理解される箇所がたくさんあります。
 例えば、ヨハネによる福音書1章4節〜5節ですが、

 口語訳聖書では、
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
  光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
 
 共同訳聖書では、
  言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の
  中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 共同訳聖書は変です。解ったような感じを受けますが、私は何を言っているのか
 理解出来ません。

 親しくしている牧師は、共同訳聖書を称賛して「学のある人たちが翻訳しているから
 とてもいい聖書なんです。」なんて話されてました。
 多くの教会では、共同訳聖書や新改訳聖書を使っておりますが、口語訳聖書がもっと
 読まれるように願うものです。


<tomi>
たしかに、この共同訳はおかしいですね。

「暗闇は光を理解しなかった。」はη σκοτια αυτο ου κατελαβεν ですが、κατελαβενには、apprehend, attain, overtakeという意味があり、「理解する」「達成する」「打ち勝つ」とあります。
「光を理解する」と訳することもできますし、「光に打ち勝つ」と訳することも可能です。
ただし、文脈を考えると、「打ち勝つ」と訳すべきではないかと思います。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
「光はやみの中に輝いている。やみはこれを理解しなかった。」

光とやみが対照されているわけです。
いわば、相互に緊張がある。
ならば、対立的関係にあると考えるべきでしょう。
光はやみに打ち消されることなく輝いている、ヨハネは言いたかったのではと思います。
「理解する」と訳すると、わざわざ「光とやみ」という比喩を使った意味がなくなります。
意味がぼけてくる。

やみが光を理解しない?ぼわ〜んとした感じになりますね。分かったような分からないような。

「やみは光に打ち勝たない」とすれば、やみと光の戦いのイメージが沸きやすい。

おっしゃるとおり、共同訳は、外典を正典と併置していますので、正典の意味をぼやかします。

正典とは、人間の言葉ではなく、神の言葉です。人間の言葉と神の言葉は、まったく質的な違いがある。

神の言葉は、絶対不変、無誤無謬の言葉です。だから、外典と正典の間には、月とすっぽん以上の違いがある。

ローマ・カトリックの中に流れる、人間崇拝、人間と神の区別をあいまいにする霊の影響をプロテスタントが受ける。

ゆゆしき問題です。

 

 

2009年3月5日

 

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