熊田亨氏の「リベラル哀れ」(中日新聞11/17朝刊)について


<O様>

中日新聞11/17朝刊の「ヨーロッパ展望台」に熊田亨氏が「リベラル哀れ」と題して寄稿しておられます。全文御紹介したいのですが、一部、特に目に止まった部分を以下に抽出します。

(前略)*今やアメリカにおけるリベラルとは、道徳の堕落、家族倫理の頽廃、犯罪に対する寛容、テロリズムと戦争にのぞんでの弱腰の姿勢、お上だのみの「大きな政府」の護持といった、さまざまに、消極的、うしろ向きのイメージを綜合する言葉になった。
社会生活の身近な環境に引き寄せれば、人工中絶、セックスの自由、同性の結婚、反戦運動、死刑の廃止、無神論、進化論、聖書テキスト批判などの「放任思想」をとなえる人びとは、侮蔑をこめて、リベラルとなづけられるにいたった。
(中略)聖書の解釈と探求を無神論ときめつけ、進化論よりも聖母マリヤの処女懐胎に信仰をかたむけるたぐいの革命は、ヨーロッパの歴史を二百年昔の時代に巻きもどすようなこころみである。
(中略)ヨーロッパ連合(EU)のあたらしい司法・内務大臣に指名されたイタリア人欧州委員(閣僚)が、「同性愛は神にそむく罪である。結婚とは、女性が子どもをうみ、夫から保護をうけることによって成立する」と言ってのけたのである。それは、リベラルを憎む、アメリカ社会の人びとの共鳴をよぶかもしれないが、ヨーロッパでは啓蒙以前の思想である。
これまで「反逆」を知らなかったヨーロッパ議会がまさに蜂起して、大臣のリコールに成功した。
もって知るべし。(以下略)*

まさに噴飯ものです。「もって知るべし」とは、誰が?何を?
逆に問いただしたくなりました。

<tomi>
O様。まさに同感です。ヨーロッパ議会がホモ批判者の大臣をリコールしたとは初耳です。


聖書の解釈と探求を無神論ときめつけ、進化論よりも聖母マリヤの処女懐胎に信仰をかたむけるたぐいの革命は、ヨーロッパの歴史を二百年昔の時代に巻きもどすようなこころみである。

熊田氏は、「ここ200年の時代は正しい。その間に築き上げられた進化論や聖書批評学は絶対不変の権威である。」という前提から出発しています。そして、その時代を批判する者は、すべて「反逆」であり、時代を逆戻ししようとする反動的アナクロニストだ、と。

批判する相手がどのような議論をしているか、その具体的な中身を見ようとせずに、一方的にレッテル貼りをして切り捨てる。こういう権威主義こそ歴史を200年昔の時代に巻き戻すようなこころみでしょうね。

聖母マリアの処女懐胎を唱えるキリスト教と同じドグマチズムだ。

ここ200年の歴史において、ヨーロッパ文明は、認識において権威というものを設定することを拒否してきた。

つまり、「すべてを疑え」とのデカルト流の懐疑を前提としてきた。

そして、人間の経験からのみ出発し、それのみに依拠して、知識を積み上げるという方法を採用してきた。

約200年前に確立された西洋の学問の認識論とは、(純粋に人間中心的な)経験主義だった。

だから、理論上、あらゆる権威は否定され、すべてが人間の目によってチェックされるべきだ、ということになった。

キリスト教の神もその対象の中に入れられた。

神とは、その前にただ恐れおののいてひれ伏す対象ではもはやなくなった。

人間という審査員の前に出て、歌ったり踊ったりするオーディション候補者の一人になった。

「神すらも、人間のチェックを受けるべきである」という考えに200年間、ヨーロッパ文明は支配されてきた。

そして、この考えを熊田氏は当然のごとく受け入れているが、これまで人類の中で誰一人として、この考えが絶対であることを証明した人はいない。

「人間は、神をも裁くことができる!」というここ200年のヨーロッパ文明の主張は誰にも証明されていない。

恐らく、熊田氏でも無理だろう。

それとも、証明してくれるだろうか?

経験主義認識論によって、人間が神の審判者になれるということを証明してくれるのだろうか?

人間はオーディションの主催者になって、神を候補者の中に入れて、踊らせたり歌わせたりすることができる、と証明できるのだろうか?

もしそれを証明してくれるなら、我々のことを「反逆」者と呼んでもよろしい。

もしそれを証明してくれるなら、我々のことをアナクロニストと呼んでもよろしい。

できないなら、熊田氏は単なるドグマチストであり、権威をかさにきて批判する権威主義者、精神的には、自分が批判する200年前の時代に属する人間ということになってしまいますね。

 

 

2004年11月18日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp