<Sugi様>
2009/08/17(月) 23:47 の Qさん の 投稿について、
Bahnsen はこういっています。
「なんらかのpresupposition (前提)は worldview(世界観)を伴っている。キリスト教以外の前提は、自己破壊的(self-destructive)であるため成立しない、かつ、世界観が成立しない。ゆえに妥当性を持たない。
そして、究極的には論理・因果律(Law of logic) さえもキリスト教の前提によってしか成立し得ない。---Law of logicのみでは、世界観が成立しないので、Law of logicは究極の権威ではない。」
というわけで、仏教も自己破壊的(つまり、論理・因果律/Law of logic が破綻する)であり、仏教徒は世界観を、キリスト教の世界観を盗んで--(Van Til のいうところのBorrowed capital)--成立させている。
ということになります。
<tomi>
そのとおりです。
聖書の創造論がなければ、前提が世界観を破壊します。
「宇宙は自然に出来た」と考えるならば、自然が究極になり、自然法則が究極の法になります。すると、「弱肉強食」などが弱者救済よりも高い倫理になってしまい、「力で覇権を拡大して何が悪い?」というパワー崇拝に陥ります。
すると、この前提に立つならば宗教は成立できず(もちろん、パワー崇拝の宗教は生き残るでしょうが)、それゆえ、どうしても、善意の創造主が創造した世界、という前提を選択せざるをえない。
だから、すべての思想は究極的に聖書の創造論を選択せざるを得ない。
ヒューマニズムですら、同じことが言えます。
ヒューマニズムは神を否定しながら、神の創造に依存しています。
もし依存しないで完全にヒューマニズムの前提を適用すれば、世界観は崩壊します。
ヒューマニズムの前提にたった水戸黄門など絶対に視聴率を取れない。
なぜならば、「悪い殿様が領民をいじめ抜いて悪事の限りを尽くしたが、領民には力がないので、泣き寝入りした。終わり」というようなものだからです。
人間は、「力よりも正義」を愛するものであり、それなるがゆえに、勧善懲悪の物語が好かれる。
聖書の創造論なしでは世界観は成立しないと言えます。