予定論について


> 実は、あのあと「旧約聖書のヤコブとエサウという兄弟に関する、
> 新約聖書のローマ書におけるパウロの説明」について
> 読み返していたんですが、
> 一部、意味がわかりづらいところがあるので、
> 質問させてください。
>
> お忙しいところすいません。
> もちろん、MILLENNIUM 管理者さまの文章が
> わかりづらいのではなく、もともとの聖書の文章が
> 難解なので、自分の解釈が正しいのかどうか、
> 自信がないので、質問しようとおもいました。
>
> > その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の
> 選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
> 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
>
> この箇所は文章的にわかりづらいのですが、
> ようするに、兄は弟に仕えるというように、
> 善も悪もおこなわないうちに神が計画している
> という意味でいいんでしょうか。

そのとおりです。

神は人間が生まれる前から人間の運命を決定しておられます。

パウロはその運命について被造物はとやかく文句を言う権利はないということをこの箇所ではっきりと宣言しておられます。

聖書において「主権者」なる神の概念は、徹底しており、人間が善を行う者として生まれてくるか、それとも、悪を行う者として生まれてくるか、神が決定しておられます。

善を行って祝福される人生もあれば、悪を行って呪われる人生もあります。

人間はそれぞれ役割を与えられて生まれてきた役者です。

> 「召してくださる方によるよう」というのは、
> 兄が弟に召すということでしょうか。

召してくださる方とは、神です。

「選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。」

ここで、「選びの計画」が確実であり、動かないものであるというのは、その計画が人間の側の「行い」に依存しているのではなく、「召してくださる方」である神の決定、予定、聖定による、ということが強調されています。

生まれる前からすでに決定されていることであって、本人が何をしたから、という問題ではない。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、・・・」

人間の側から見れば、「まだ生まれてもいないのに、すでに運命が決定しているなんて!」と思われるかもしれませんが、この世界の創造者は神であり、人間ではないのですから、その主権に服する以外にはありません。

世界のあらゆる物事は、神の一存で(人間の思惑に関係なく)決定され、そのプロットにしたがって進展している。

私たちが信仰を持って救われる運命なのか、滅びる運命なのかは、人間の目ではわかりませんが、神の目ではすでに決定されています。

 

 

2007年6月12日

 

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