キリスト教界に世渡り上手はいらない


ノンクリスチャンの特徴は、「人間に生来属するものに対する期待」である。

つまり、「神様、あなたがいなくても、私たちだけで何とかやれますよ。」ということである。

哲学と名のつくものの根本原理はこれである。

観念論、実存主義、啓蒙主義・・・名前は違うが、すべて「人間だけでやろう」という動機が根底にある。

すべて、ヒューマニズムなのである。

なぜ、人間は「我々だけでやろう」というのだろうか。

それは、アダムの子孫だからだ。アダムは堕落して、「神のしもべ」から「神の敵」に変わった。

エデンの園を追い出された物語は、これを象徴している。

人間は堕落し、その堕落の性質は子孫に受け継がれた。だから、人間は生まれながらに、「神の敵」である。

神の敵の特徴は、「神を王として迎えたくない」というところにある。

今日の教会は、表面的には「神様、神様」「イエスは主です」と言うが、実質的な内容は、「あなたに王になってもらいたくない」と言っている。

もしイエスを王として本当に迎えているならば、これだけ再建主義に対する攻撃や無理解はないはずである。

我々を歓喜して迎えるはずだ。

「tomiさん、そうですか!そんなに素晴らしい活動をしているんですか!いやあ、待っていましたよ!」と言って、歓迎するはずである。

しかし、実際は逆である。

積極的な拒絶か、もしくは、無視である。

共通しているのは、「絶対に」議論の俎上に乗ろうとしないことだ。

乗ったら、負けるから。

すでに述べたように、我々は歴史的なキリスト教から飛び出した教えを一切言っていないし、また、聖書から論証できないことも一切述べていない。

だから、反論しようがないのだ。

アメリカでも同じ現象はラッシュドゥーニーが活動した当初から見られた。

彼は、講義している最中に途中で大声で叫ぶ人がいたためにそれ以上講義をストップしなければならなかったことが何度かある、といっていた。

彼のところには、いつも脅迫、罵倒、嘲笑の手紙が寄せられていた。

しかし、彼の影響は今日世界のキリスト教界全体に広がっている。

彼の死後、タガが外れたように、いろんな逸脱が見られるが、しかし、正統的に教えを受け継いでいる者もいるだろう。

真理はそれだけで力がある。

真理と偽りが戦って、最終的に真理が勝つ。

なぜならば、真理の神がこの世界を統治されているから。

今のクリスチャンの特徴は、「様子を見る」というところにある。

会社でどちらの部長につけば出世できるか様子を見ている部下のように、どちらにつけば将来多数派になれるか見ているのだ。

つまり、派閥で動いているのである。

こういう小物を相手にしても無駄である。

信仰のない連中は相手にならない。

何が正しいか、何が聖書的か、ただそれだけで動く人間しか相手にできない。

様子を見、自分の利を追い求めているのは、心の根底において「無神論者」である。

彼らは来世における裁きを信じていない。

人生全体を裁かれる主を見ていない。だから、この世の力関係でものを見ようとするわけだ。

たしかに救われるかもしれないが、一文無しで天国の門の前に立たねばならないだろう。報いなんて期待しちゃあならんのです。

私のこれまでの経験から、今活動している教派、教師、牧師のほとんどが、このような「世渡り」をやっていて、相手にも問題にもならない。友達になりたいと思えるような人はほとんどいない。

名誉や権勢、お金が欲しいなら、なんでこの業界に入ったの?と聞きたいくらいの人ばかりだというのはまことに残念だが、もう期待していないし、目に入れないことにした。

 

 

2004年7月2日

 

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