バルトと新福音主義
バルトは、自分が福音主義と呼ぶものが通常の福音主義(バルトは通常「正統主義」と呼ぶ)と異なっていることをよく承知していた。福音主義を改良し、進化させたかった。どのようにして進化させたかったのだろうか?
それは、あらゆる思弁を排除することによってである。ここでいう「思弁」とは聖書啓示に基づかずに、哲学や思想、自分の考えにしたがって思考することである。
「御言葉に聞かなければならない。もっと注意深く、もっと広範囲に、御言葉から学ばなければならない。」 バルトにとって、イエス・キリストだけが世界の光であり命であった。彼は、ここを出発点にしなければならないと主張し、神と人間の関係におけるあらゆる面について、キリスト・イベント(イエス・キリストにおいて万人を救う神の事実と活動のこと)を出発点として解釈することを望んだ。
福音主義は、神と人間の関係をあまりにも静的なものとしてとらえすぎる。もし我々が聖書的であり、プロテスタント的であり、それゆえ、真に福音主義的であろうとするならば、神と人間との関係におけるあらゆる面は、すべて現実化されなければならない。
(A) 受肉の現実化
神と人間の関係の中心は、受肉にある。カルケドン会議(451年)において、教会は、「イエス・キリストは真の神であると同時に真の人間でもある。」と述べた。教会は、哲学的思弁から離れ、聖書の教えに基づいて教理を定めようと努めた。たしかに、これはすばらしい高潔な試みではあったが、あまりうまくいったとは言えない。カルケドンの教父たちは、自分たちが逃れようとしたその思弁の奴隷であった。
ギリシアの哲学者たちによれば、この時空の世界は絶えず流転する世界であり、それゆえ、ほとんど無意味な世界である。しかし、この世界の背後には永遠の世界、不変の世界があり、それこそが真の現実世界である。
教会教父たちは、残念ながら、このギリシア二元論思想を教会に持ち込んだ。彼らは、「イエス・キリストの神的性質は不変である。そのため、その人間的性質と混和することはない。」と述べた。彼らは、「神は自由なお方であり、自分自身の正反対なものに変わることがおできになる」ということを理解できなかったのである。また、彼らは、キリストの人的性質は、天地創造の際に現れたものであると考えた。彼らは「人的性質はキリスト・イベントに参加することによってはじめて成立するものである。つまり、受肉したキリストのうちに真の人間性が存在するのであり、神は存在するだけではなく、共在する」ということが理解できなかった。(Kirchliche Dogmatik, 1/1, p. 337; Engl. tr. p. 367.)
我々は、キリスト論的、聖書的に思考しなければならない。そうすれば、「キリストにあって永遠は、永遠であることをやめることなく時間になる」ということが分かるだろう。神の永遠性は、それ自体始まりであり、継承であり、終わりである。
イエス・キリストにおいて、永遠なる神は、時間的な存在になり、我々の存在と我々の世界の形式にしたがって我々のために存在するようになる。単に時間を抱擁し、支配するだけではなく、ご自身を時間に従わせ、被造物でしかない時間を、ご自身の永遠性の形式にされる。(Ibid., 2/1, p. 694; Engl. tr. p. 616.)
それゆえ、受肉以前に神自身(God in himself)は存在せず、また、受肉への参加を経ずして人間は人間自身(man in himself)になれない。
本当の御言葉の神学は、キリスト・イベントによって受肉を現実化しなければならない。永遠不変の神という哲学的概念から出発し、そのような神がどうやって変化せずに人間となれるのだろうか、と尋ねてはならない。または、時間的な被造物でしかない人間という哲学的概念から出発し、そのような人間が永遠の神にどうやって参加できるのだろう、と尋ねてはならない。
バルトにとって、「Geshichteは存在を伴う」と主張することはきわめて重要であった。Geshichteはいつでも起こる。Geshichteにおいて、キリストの謙遜は同時に栄光でもある。キリスト・イベントにおいて、神の永遠は時間に従属する。それは、キリストの謙遜である。キリスト・イベントにおいて人間の時間は永遠に昇格する。それはキリストの栄光である。
もし伝統的な福音主義者がこの受肉の現実化という考え方について行くことができないならば、それは、彼らの考え方が十分に福音的ではないからである。まだカルケドン信条の教父たちと同じように考えているからである。真の福音主義者になりたいならば、過去と現在が同一になることがどうやって可能であろうかと尋ねてはならない。キリスト・イベントの視点から考えることができるようになれば、過去と現在と未来の区別は「キリストの臨在」に服従するようになる。子供が歩くことを学び、自転車に乗り、16歳になって車の運転を学ぶときに、それは彼にとってスリリングである。これこそ、バルトが伝統的な福音主義者に約束している喜びである。受肉を現実化する時に、彼らはバルトとともに歓喜を体験できるのである。
[以上、Cornelius Van Til, “The Incarnation Actualized”, of “Karl Barth And Evangelicalism”, from “The Works of Cornelius Van Til,” (NY: Labels Army Co.), 1997. の要約]
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(1)
「御言葉に聞かなければならない。」という言葉は正統的なクリスチャンがよく使う言い回しである。しかし、我々は、バルトが我々と同じ意味でこの言葉を使っていると考えてはならない。
御言葉とは、今から約2000年前に文字として使徒とその仲間によって記された、我々が新約聖書に含まれていると考えるところの文書ではない。または、今から約2000年前に人間として使徒とその仲間、そして、イスラエル人とローマ人の前に現れ、新約聖書において記されているあのナザレ出身のユダヤ人イエスでもない。
Credoという最近出版された著書においてバルトは次のように述べている。 キリストが誕生され、苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、蘇られ、神の右の座に座し給うたという事実にどのような意味があるのだろうか。これらは、我々が使っている暦において、ある特定の年数をさかのぼってたどり着く過去の出来事なのだろうか。否。けっしてそうではない。キリストが誕生し、葬られ、蘇られたときに、暦の上のある特定の時間に何かが起こったことは確かだ。しかし、この歴史上で起こった何かは、真の出来事ではなく、それゆえ、重要ではない。歴史上で起こった出来事は、真の出来事を指し示すことしかできない。真の出来事は、我々の暦で測ることのできない「啓示の時間」に起こったのである。(Van Til, “Christ Our Contemporary” of “Karl Barth And Historic Christianity”, The Presbyterian Guardian, 1937, Vol.4, p. 108f.赤字強調は富井による)
2006年3月21日
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