キリストにあってすべての人は自由である


集団ストーカーというものはありえると思う。

たとえば、矢野絢也氏のケースだ。
http://www.miyamoto-net.net/column2/diary/1239011115.html

ある集団が、公然とではなく、隠然と、ある人や団体にプレッシャーをかけるということはありえるだろう。

しかし、それはごく限られた人々に対してである。

社会的影響力が強い人々。その人の存在によって、その団体が大きな損失をこうむる恐れがある場合に限る。

なぜならば、そのような行為にはお金がかかるからだ。

組織的に圧力をかけるだけの経済的な見返りがない場合、そのような行為はありえない。世の中はほとんどの場合、経済的にペイするかどうかで動いている。投資に見合った見返りがなければいかなる陰謀も成立しない。

だから、我々は、自分が集団ストーカーされているかどうか判断する際に、「私をいじめて彼らに十分な経済的見返りがあるだろうか」と考えるべきだ。

もしそのような十分な理由がなければ、それは幻想ではないかと疑うべきだ。

サタンは被害妄想という形で人を奴隷にしようとしている。

程度が進めば、幻聴や幻視という形ではっきりと現れるようになる。

被害妄想がそのような明らかな形になる前に、我々はサタンの策略を見抜かねばならない。そうしないと一生を幻覚によって台無しにされてしまうだろう。

薬物も奴隷化の一つの手段である。我々を特定の薬物に依存させることによって、サタンは我々を支配しようとしている。

安心していただきたい。

我々は自由だ。我々の支配者はキリストだ。

クリスチャンになることによって、悪魔の支配から脱出できる。

キリストは、我々の代価を支払ってくださった。

キリストの御業は「贖い」である。「贖い」とは、身代金を払って奴隷を買い取るという意味である。

つまり、キリストは、サタンの奴隷であった我々の身代金をサタン側に払って、我々を買い戻してくださった。

我々はキリストのものになった。だからもはやサタンは我々に対していかなる権利もない。

キリストを信じる前において、我々はサタンの所有物であるから、サタンは我々に好き勝手なことができた。

しかし、キリストが買い戻してくださったので、サタンには所有権はなく、それゆえ、サタンは我々に対して好き勝手なことはできない。

クリスチャンになってもサタンに行動を左右されている人がいたら、それは、サタン側の幻想によってだまされているからだ。

サタンは、「まだおまえは私のものだ」と信じ込ませようとしている。

世界はキリストにおいてすべて買い取られた。サタンは法的に所有者ではない。


その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28・18)

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。(ルカ10・18−19)

天地万物の所有権がキリストに移った。

それゆえ、サタンはいかなるものに対しても所有権を主張できない。

我々は、法的に自らの領土となった国において、その所有権を具体的に適用しなければならない。

まず自分自身を回復すること。

そして、自分の周りのものを回復すること。

すべてをキリストの所有物として回復すること。

具体的な活動がなければ、サタンの鎖は取れていない。

ノンクリスチャンは、あたかも首輪をつけられてサタンの奴隷小屋につながれている奴隷に似ている。

その首輪につけられた錠前をはずすための鍵はすでに与えられている。

彼は、その鍵を取って錠前を外す作業をしなければならない。

その作業をしなければそのまま支配は続く。彼は檻の中から出てくることはできない。

ノンクリスチャンは、自分の目の前にある鍵があるにもかかわらず錠前を開けない人である。

様々な妄想や罪、薬物依存などから逃れられない人の決定的な問題は、鍵を使わないことである。

鍵を使いなさい。

そして、自分の鎖を外しなさい。

すべて自分を縛り付けている枷は、外すことができる。その権利があるから。

サタンはその鍵の存在を見せないようにしている。目の前に鍵が落ちているのに、それがあたかも存在しないかのように錯覚させている。

経済的な問題も同じだ。

我々を縛り付ける経済的な問題にも、解放のための鍵が目の前に落ちている。

それをただ使用すればよいのだ。

どのような問題でも行き詰まりなどというものはない。

神はその鍵を我々の足元においておられる。

それを取って錠前を開けなさい。

そうすれば解放される。

サタンには我々を縛り付ける権利はいっさいないのだから。

キリストにあってすべての人は自由である。

 

 

20010年1月3日

 

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