神の不在が証明された?3
その学者は、「神は完全である。完全であるものは存在しないことが科学によって証明されたので、神は存在しない」という論理の建て方をするらしい。
この学者が述べたことは、「この学者が完全と定義したものの不在証明」であって、聖書の神の不在証明ではない。
聖書の神は完全であるが、この学者の言うような完全ではない。
たとえば、ある人は「神は自殺できない。だから、全能ではない」という論理を展開する。
これは、聖書の神の全能否定ではなく、この人が定義する「神」の全能否定である。
じゃあ、聖書の神とはどのような神なのか?
「超越者」である。
「いかなる批判も超越している」。
こういうたとえを用いると分かりやすいだろう。
この学者が神だと述べる者は、人間が審査員を務めるオーディションに現れることに同意して、彼らの前で踊ったり歌ったりする存在である。
聖書の神とは、人間が審査員を務めるオーディションには絶対に現れない。むしろ、その審査員たちを審査し、自分を評価しようとする者に冒涜者として裁きを下す。
なぜならば、彼が、その審査員を創造し、彼らの生存を逐一許しているから。
つまり、創造者であり、第一原因であり、摂理によって一瞬一瞬の活動と生存を許可している者は、それらの者から評価されることを拒否する。
評価されることは、その評価者を自分よりも上位であると認めることになるから。
創造者、摂理者よりも上位にたって評価できるとするあの学者は、自己矛盾している。
それは、あたかも「世界最高の山よりも高い山に登った」と宣言するのに等しい。
神は我々の住む時空の世界を超越している。
時空すらも創造されたのであるから、時空に縛られない。
我々にとっての時空とは、コンピュータ内のアプリケーションにとってのOSのようなものだ。
Macのアプリケーションを他のOSで動かすことができないように、人間もこの世界の基礎システムである時空を超えることはできない。
しかし、OSを創造したプログラマーが、プログラムを書き直すことによってそのOSを超越して仕事ができるように、神も時空を超越して仕事ができる。
プログラマーは、OSに原則支配されない。
神を証明するというようなことは、プログラマーをOSによって縛られていると、仮想現実の世界に閉じ込められたアバターのようなものだと考えていることである。
神の不在を証明したなどという発言は、聖書の神について完全に誤解している。
2010年6月18日
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