このサイトのFAQにおいて、次のような問答がある。
Q. 再建主義は、クリスチャンによる「一党独裁」を目指していますか?
A. 目指しておりません。再建主義は、人間は罪人であるので、単独の人間やグループに過大な政治的権限を与えると、危険であると考えます。ですから、民主主義のように、権力を分散し、互いにチェックし合い、バランスを取るようなシステムのほうが安全であると考えます。
それにもかかわらず、再建主義が目指す政府において、選挙権と被選挙権が教会のメンバーに限定されているのはなぜか、と思われる人がいるかもしれない。
これは、2つの理由からである。
(1)国民が自らすすんで政治制度を聖書に基づかせることを望むようにならない限り、過半数の力によって、もしくは、革命によって、聖書的政治制度を無理やり押し付けるのは、聖書的な方法ではないから。
つまり、たとえば、日本がクリスチャンの国になることを国民が選択し、聖書を国の法律の基本とすることを望むまでは、キリスト教も一つの選択肢である。
仏教、イスラム教、キリスト教、ヒューマニズム、・・・
様々な宗教が選択肢として並ぶ状態でよいと考える。(実際は、ヒューマニズムが現在の国の基盤宗教なのだが。)
人々は自由にそれらのうちのいずれかを選択し、それで国を運営すればよい。
聖書は、どこにおいても、人間に信仰を強制していない。
人がイエス・キリストを信じるのは、神の愛を感じ取るからである。
神はレイピストではない。
神は無理やり日本人を連れ出して、「信じろ!」と言われる方ではない。
イスラエルが律法を選択したのも、自ら進んでであった。
彼らはモーセを通じて神に「それらをみな守り行ないます」と言った。
エジプトでの過酷な奴隷状態よりも、神のもとにある秩序ある自由な生活を望んだ。(*)
神が国民を弟子とする方法とは、これと似ている。
まず罪の奴隷状態を嫌というほど体験させる。そして、キリストにある自由な生活を選ぶように導かれる。
教会に行ってクリスチャンの信仰体験を聞いて欲しい。
このような救われ方をした人々が多いことに気付くだろう。
(2)しかし、聖書的な体制を選択した後は、その体制を転覆させるような教えや行動を禁じる必要がある。
どのような体制であっても、自分を覆すような人間を許容しては社会は成立しない。
今の日本であっても、「ぽんぽんと頭を叩くことによって脳腫瘍が治る」と言って、病人を治療した教祖が逮捕された。
国の秩序を守り、遵法的な市民を犯罪者や無政府主義者から守るには、法律違反者を国は処罰せざるを得ない。
聖書が教える体制とは、御言葉を神聖不可侵の絶対的権威、国の絶対不変の基盤として採用する体制である。
聖書そのものを疑うという選択肢を許せば国の秩序が根底から崩壊する。それは、明かに革命行為になる。
それゆえ、確立した体制を維持するためには、選挙権と被選挙権をクリスチャンに限定することである。
クリスチャンといっても、名ばかりのクリスチャンもいるわけだから、はっきりと聖書信仰に立つクリスチャンであることを確認しなければならない。
したがって、選挙権と被選挙権は、聖書信仰の教会に通い、そこのメンバーとして忠実に信仰生活を送っている人だけに与えるべきである。
聖書では、教会は「真理と奥義の管理者」である。
「地上で繋ぐと天でも繋がれている」とイエス・キリストは言われた。つまり、地上の教会がある人をクリスチャンとして認めれば、その人は天においてもクリスチャンとして認められ永遠のいのちを受けるが、教会がその人を戒規処分にし、教会籍を剥奪し、聖餐を拒絶するならば、その人は天においても拒否される。
したがって、教会から戒規処分を受けている人をクリスチャンとして認めることはできないのであるから、彼は選挙権と被選挙権を得られない。
このような資格が存在しなければ、聖書的政治体制は革命者によって転覆される。
聖書に基づかなくてもいい、聖書律法は人間や社会の行動規範の原則であるとは思わない、というような人々が選挙権や被選挙権を得ることによって、現在の普通選挙制のもとにおけるように、秩序はまた混沌化する。
人間と社会が、罪のはかない快楽の中に堕ち込んで、無駄なところにお金と労力を使い、ついには何の実も結ばずに衰退し、犯罪が蔓延してもよいというなら別だ。
しかし、それはあまりにも愚かである。
ちゃんと分別と理性とがあれば、今の無秩序な社会や制度がよいとは誰も思わないはずだ。
聖書の教えを絶対の基準とするときに、社会には自由と秩序と安全が共存するようになるだろう。
国民がそれに気付くようになるには何年かかるだろう。
現状からすれば夢物語だが、しかし、神の聖霊はすべてを可能にするだろう。
聖書はこのような時代がくることは予定されていると述べているのだ。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国民を弟子とせよ。」(マタイ28・19)
(*)
あくまでも神は人間を幸せにしようとしておられるのであって、がんじがらめに縛り付けようとしているのではない。
律法を誤解する人々は、それを束縛と考えている。しかし、聖書において律法はそのようなものと描かれていない。
「いやぁ、姦淫を犯した人を石うちにせよとか厳しい掟がありますよね」と言うかもしれない。
姦淫は束縛なのである。姦淫者は、姦淫から逃げられないのである。すすんでやっているなんてのはウソ。不倫をしている人は、本当は後ろ髪を引かれながら、自分がやっていることの刑罰が永遠の地獄であることを知っていながら、恐れおののきながら、いやいや関係を持ちつづけているのである。
自分が正しい道から落ちたことを知りながらやっているのである。つまり、奴隷である。
聖書律法は人がこのような奴隷状態に陥らず、人の道を踏み間違えることのないように描かれたロードマップである。
人間と社会を姦淫から救い、少しでも奴隷状態から自由な状態に解放する道を提示しているのである。