仕える人が支配する


(1)
キリスト教は覇権主義である。覇権という言葉は語弊があるが、統治を拡大するという意図をもつという意味において他のいかなる教えとも共通している。

しかし、キリスト教の覇権拡大と、他の思想の覇権拡大との大きな違いは「契約」にある。

他の思想例えば共産主義は、「武力による覇権拡大」を唱える。

しかし、キリスト教は、「契約による覇権拡大」を唱える。

契約による覇権拡大とは何か。

それは、申命記を読めば分かるように、「神との約束」を守ることによって、覇権を拡大するということだ。


私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。(申命記28・13)

「命令」に「聞き従い」、「守り行う」ことが、「かしらとな」り、「尾とはなら」ないための唯一の方法なのだ。

では、「命令」とは何か。

律法だ。

十戒を基本法とする様々な規定である。

第一戒 ヤーウェ以外のいかなるものも神としてはならない。
第二戒 偶像を拝んではならない。
第三戒 主の御名をみだりに唱えてはならない。
第四戒 安息日を覚えて、これを聖別せよ。六日間働いてすべての仕事をせよ。
第五戒 父母を敬え。
第六戒 殺すな。
第七戒 姦淫するな。
第八戒 盗むな。
第九戒 隣人に対して、偽証するな。
第十戒 隣人のものを欲しがるな。

この倫理規定を守る人間の覇権は拡大する。

契約的覇権主義とは、言い換えれば、「倫理的覇権主義」である。

キリスト教は、武力によるのではなく、倫理による覇権拡大を目指す。

だから、ブッシュ大統領のアメリカのような武力覇権拡大主義は、キリスト教思想ではなく、異教思想である。

私は、読者が、キリスト教についても、再建主義についても、このような異教思想と混同しないようにくれぐれもお願いしたい。

もう一度言おう。

キリスト教も再建主義も、契約的覇権拡大主義をとるのであって、武力や暴力による覇権拡大主義をとらない。

我々は、まじめに働き、生活し、人々の信頼を獲得することによってのみ、支配を拡大できると考える。

(2)
イエスは、弟子たちの足を洗われた。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ13・1-10)

イエスは、「父が万物を自分の手に渡されたこと」を「知」られた。

つまり、イエスは、世界の支配権を獲得された。つまり、この世界の王になられた。

我々は、王と聞くと、臣下を従えて尊大に振舞う人間を連想する。

しかし、イエスはそのようなお方ではなかった。

イエスは、この世の王とは逆に、弟子たちの足を洗われた。

つまり、本当の支配は「謙遜」な者にこそ与えられるということをお示しになったのだ。

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(ヨハネ13・14)

キリスト教の支配の拡大の方法とは「互いに足を洗う」つまり「互いに仕えあう」という方法である。

異なる考え方の人々を暴力によって服従させるのではなく、逆にそれらの人々に仕えていくことこそ、クリスチャンの取るべき覇権拡大の方法だ。

(3)
市場原理を何か誤解している人々がいる。

「市場を牛耳る」などということが言われるが、市場原理が徹底すればするほど、市場を牛耳ることはできない。

なぜならば、顧客に仕えることができない会社は市場から駆逐されるからだ。

ある会社を拡大したいならば、顧客のニーズを調べて、他社よりも「よく仕える」ことができなければならない。

政治的なコネクションはこのような原理を破壊する。特定の政治的な力を持つ人間とコネクションを持つ会社が生き残るので、顧客に仕えるかどうかという要素が相対的に弱くなり、市場が消費者の利益を損なうことになる。

聖書的な覇権拡大の原理を適用するならば、我々は、経済からできるだけ政治的な要素、共産主義的な要素を取り除く必要がある。

(4)
キリスト教的な、すなわち、契約的・倫理的な覇権主義は、市場原理の徹底化を求める。

国の権限をできるだけ縮小し、市場への関与をできるだけ少なくすることを求める。

市場競争によって、倫理的契約的ではない会社が淘汰されることなくして、社会は進歩発展しない。

(5)
中国人は、今、「人生において一番大切なのはお金。その次健康。」と考えているそうだ。

中国の経済は、つきつめれば「力による覇権拡大」だ。

これは、まだ人々が本当の市場経済を知らないからだ。

彼らが「人生において一番大切なのは信用。」と言えない限り、中国は本当には豊かになれない。

なぜならば、信用を獲得することなくしては、世界市場においても、国内市場においても、勝ち残れないからだ。

日本人は、この厳しい市場経済を生き残る過程で、「金を求めるな、信用を求めよ」という原理を学んできた。

金を第一に求める人間は結局金を獲得できない。

毒入り歯磨きや、コピー商品を作って売っても信用を獲得できず、それゆえ、次第に客が離れていく。

いつまでたっても豊かになどなれるはずがない。

仕えることができなければ、結局貧乏になるしかない。

ここからも、聖書の「仕える人が支配する」という原理が正しいことが分かる。

 

 

2007年9月19日

 

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