蘇我氏の復活


故佐宗邦皇氏による月刊『ムー』9月号「蘇我王朝の復活」は興味深かった。

氏は、日本の歴史は、645年の大化改新から1945年の敗戦まで、ちょうど1300年間、藤原氏の支配を受けていたという。以下まとめる。


記紀は、藤原氏によって意図的に歪められており、正しく史実を伝えていない。

佐宗氏の先祖である蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代(6−7世紀)にかけて一大勢力を誇った氏族で、代々大臣を出す大和の有力氏族であった。

朝鮮半島からやってきた百済王朝の重臣・木満致を祖とし、大陸の知識と技術をベースに経済的基盤を固め、権力の中枢の座を占めるようになった、と歴史学では定説になっているが、これは事実ではない。

蘇我氏=百済系渡来人説は、蘇我氏宗家を滅ぼした中臣鎌足とその末裔である藤原氏が、蘇我氏を貶める意図で広めた説である。

蘇我氏は、聖徳太子と深いかかわりがあり、互いに親戚であった。

大陸と新たな交流を開始しようとし、親百済の政策を打ち切り、新羅や高句麗と接近した。

この政策に反対したのが、中臣鎌足であった。佐宗氏の推測によると、彼は、百済の王義慈の王子余豊璋であった。

鎌足は、中大兄皇子と組んで蘇我氏の支配を打倒し、百済との連合強化、軍事的協力体制の構築を目指した。

これが大化の改新の本質である。つまり、外国勢力を背景としたクーデター。今日のCIAによる親米政権樹立クーデターに似ている。

日本は、その後、1945年の敗戦にいたるまで、影響の大きさに変化はあったが、また、壬申の乱後天武系天皇による支配回復があったが、基本的に大陸系藤原氏の支配を受けることになる。

敗れた佐宗氏の先祖蘇我氏のグループは、東に向かい、相模国に移り住んだ。備後の稲葉氏の家臣となり、小田原を拠点として活動した。

徳川時代、幕府は公家と天皇家から権力を剥奪し、生かさず殺さずの状態に追いやった。藤原氏も同様であった。(佐宗氏は、この背後には蘇我氏の働きかけがあったのではないかと類推する。)

明治維新とともに藤原氏は復活した。公爵の位を与えられ、権威を徐々に回復していった。

昭和になり、藤原氏の本家の直系である近衛文麿が総理大臣になった。彼のもとで日本は破滅へといたる道を歩んでいった。

敗戦によって、日本は1300年続いた藤原氏の支配という重いくびきから解放されたのではないだろうか。

興味深い論考である。

私は、蘇我という姓に注目する。「我を蘇らせる」。

キリスト教徒であった秦氏、聖徳太子の一族との姻戚関係があったというから、おそらくキリストを意識してつけられた姓だろう。蘇我氏が新羅を重んじたというのは、秦氏が新羅出身だからという事情があるからなのかもしれない。

蘇我氏が、クリスチャンであったとしたら、それを迫害した勢力である藤原氏は、反キリストということになる。

しかし、どうもそんなに簡単には割り切れない。藤原氏の出自が百済王にあるということは、百済の王族は夫余であり、夫余はイスラエルと関係があるとされているから、つじつまが合わない。

中臣鎌足(余豊璋)の父とされる百済義慈王の曽孫女は、夫余太妃という。最近、その墓地が中国で発見された。
http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=13&ai_id=91650

『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀に出てくる夫余族の名前はセム系である。解夫婁=ヘブル、阿蘭弗=アラブ、解慕漱=ヘモス、鯤淵=コンエン=コーエン。
http://www.millnm.net/qanda3/59SAOtFBA66688379.htm

天皇家も夫余であるから、藤原氏と天皇家は同族であり、夫余系ユダヤということになる。

だから、日本における2大勢力の対立というものは、キリスト対反キリストという単純な図式では表すことができない。

蘇我・秦=新羅系ユダヤ  対  藤原・天皇=百済・夫余系ユダヤ

とまとめられるのだろうか。

日本の歴史を構成してきた2大勢力は、ユダヤとユダヤの対立であり、いずれのユダヤが表に出るかという問題なのか。

佐宗氏の論文を図にまとめましたので、ご参照ください。
http://www.millnm.net/qanda3/soga.gif

 

 

2009年9月16日

 

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