ダビンチ・コードの影響はゆゆしきものである。
なぜならば、聖書の教えに反しているからだ。
一般の日本人があれを読んだり見たりしたら、キリスト教を誤解してしまうだろう。
聖書に関する批評は、タブーである。
それは、人間には許されていない。聖書をいじる人間は呪われる。
「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(黙示録22・18-19)
ダビンチ・コードを書いた人間でなくても、それを広め、売れるからというので、それを出版したり、配給したりする人間も呪われる。
それに携わったすべての人間が呪われる。
なぜだろう?
もし福音書や現在の完成された聖書に欠陥があり、つけたしや、削除があったとしたら、2000年の間、神はそのご自分の御民に対してウソをついてきたということを意味するからだ。
新しく「ユダの福音書」なるものが発見されたとかいう話も同じである。
最近になって新しい啓示の書物が現れたとすれば、神はなぜそれを御民に対して2000年間も隠してきたのか。また、そこに書いてあることが現聖書と矛盾するならば、なぜ神はいままで我々にウソをついてきたのか、という問題が生じる。
「それは、あなたがたの問題でしょう」と言うノンクリスチャンがいるかもしれない。
しかし、考えていただきたい。
もし神が偽るお方であるならば、どうして神は人間を裁くことができるだろうか。
自分がウソをついておいて、我々がウソをついたときに裁くことができるだろうか。
神はご自身の律法に対して忠実であられる。もしご自身の律法を破ることがあれば、律法によって違反者を裁くことはできず、それゆえ、キリストの十字架の代償死もむなしいということになるのだ。
聖書が教えるキリスト教とは、次のことを教えている。
神は、人間との間に契約を結ばれ、契約を破った場合には、死ぬか、代償を払うかいずれかによって契約関係を修復しなければならない。
人間は契約を破ったので、身代わりが必要となった。神は御子を我々に遣わし、十字架上で身代わりに処刑し、信じて契約につながる者の代償を完済された。
それゆえ、契約者の罪は赦され、永遠の命と相続財産が与えられる。
したがって、もし、ご自身が自分が立てた契約を破られた場合には、ご自身が処刑される以外にはないのである。
イエス・キリストは、我々の罪のために死なれたのであって、神や自分の罪のために死なれたのではない。
聖書は、「偽ることのない神」(テトス1・2)を証言している。
聖書にキズを見つけるすべての人は、神を偽り者とする冒涜を犯しているので絶対に救われない。
彼らは契約を破る者であり、契約の中に居る場合には、除名され、契約の外にいる場合には、契約の中に入ることはできない。
契約の中にいない者は、すべて永遠ののろいを受ける者であるから、死後、永遠の苦しみを受けつづける。
ダビンチ・コードで一儲けやっている人間は、わずかな金と引き換えに、永遠の刑罰を選択した愚か者である。