2つの映画を見て
『ボウリング・フォー・コロンバイン』と『ラストサムライ』という映画を見たが、どちらも今のハリウッドの反キリスト性がよく現われていた。
(1)『ボウリング・フォー・コロンバイン』
インディアン殺害、武器輸出、魔女裁判やアフリカ黒人奴隷、銃犯罪、ベトナム戦争、イラク侵攻…
何から何まで支配者階層として君臨してきたプロテスタント・クリスチャンのせいだといわんばかりの描き方である。
魔女裁判を批判したいなら、自分が魔女裁判官になってはならない。
聖書は侵略戦争を肯定しているか?銃犯罪を肯定しているか?魔女裁判を肯定しているか?イラク戦争を肯定しているか?
こういう批判の仕方は、日本において最近はやりだした『バカの壁』と同じである。自分が批判する対象を厳密に調べもしないで、ただ印象だけで一丁前の判断を下している。自分がそういう批判をすることによって、批判しているバカの壁を自分で作っていることすら気付かない。
当たり前のことだが、対象を単純にレッテルや印象だけで判断したら正しい評価はできない。対象を細かく分析して、何が批判対象に属し、何がそうではないかを公平に区別できない人間には批判する資格などない。
(2)『ラストサムライ』
同じ印象を受けた。アメリカ入植の歴史をアメリカ人の原罪として描いている。ダンス・ウィズ・ウルヴスと同じ。
こういう映画ばかり見ていると、文明の進歩とか発展に対して罪悪感を抱き、「単純な原始的な生活」に帰るほうがよいと考えるようになるので注意が必要だ。
『ラストサムライ』では、明治政府と手を組んだアメリカの武器商人が悪者として描かれている。そして、その汚れた金儲け主義者と手を組む明治政府に対して、古い武士道を守り、火器を使うことを拒否する反乱軍の人々が善人として描かれている。
「文明」を悪として描き、「原始的生活」を善として描くハリウッドの手法は偽善者の手法だ。
なぜならば、彼らは文明を批判しながら、文明の恩恵を最も受けている人だから。彼らが原始的生活にあこがれるのは、ただひたすら映画の中だけの話だ。自分はビバリーヒルズあたりに豪邸を建て、自家用飛行機を乗り回し、世間の一番華やかでリッチな人々の仲間に入り、最も文明の恩恵を受けることを目指している人々なのだ。
結局、このような文明批評のやり方は、金持ちに対する羨望を、金持ちをこき下ろすことによって憎しみのエネルギーに変えて革命を起こし、権力を奪うことをめざす左翼の人々のやり方に似ている。
(実際、アーノルド・シュワルツェネッガーの事務所にはレーニンの写真だか胸像だかがあると報道されていた。なぜレーニンなのだろう?)
彼らは本当に現代文明を批判したいのではなく、アメリカ人の中にあるアメリカ原住民や黒人に対する一抹の罪悪感と、金持ちと比較して文明からの本当の恩恵を受けていると感じられない中下層の人々の不満を汲み上げてそれを集客につなげようとしているだけなのだ。
『ラストサムライ』を見て、日本人であることに誇りを感じたという人が多いそうで、そんなにすごい映画なのかと思ってみたが、この映画において日本人は、『ダンス・ウィズ・ウルヴス』におけるアメリカインデアンと同じ位置、つまり、文明のアンチテーゼとして「未開文明の一つ」としてしか扱われていない。
我々は、こんな三流の文明批評のために利用されて喜んでいるようではだめである。
『コロンバイン』も『ラストサムライ』も、反文明、反キリスト教であり、60年代以降のハリウッドを支配している薄っぺらなサブカルチャーの産物である。
最近、最初の一こまを見てストーリーから結論まで透けて見えるような映画しかないのは非常に残念である。
2004年6月13日
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