当たり前のことを当たり前に受け取る時代が近づいている
キリスト教を邪教呼ばわりする前にその内容をよく把握してほしい。
ある意味において、キリスト教よりも首尾一貫して世界を解釈できる思想はない。
「それはあなたの勝手な思い込みでしょう」というかもしれないが、実際に、完成度の高い近代思想を見ても、それが合理性というよりも、「諦め」つまり非合理性から出発している。
近代思想は不可知論を土台としている。
「人間は有限な存在で、世界の隅々を見れないから、世界観を作れない」という事実を受け入れた上で、「でも、世界観がないとやっていけないから、あえて作ろう」とした。
だから、近代思想は、「分からないが、こういうことにしよう」という約束事によって成立している。
つまり「俺達は、神のように全知ではないから、分からないことだらけだ。しかし、この世界を解釈しないと生きていけないので、人間に役立つ世界という前提に基づいて、人間中心に世界を解釈するシステムを作ろう」とした。
ここで、神と人間の主従関係が逆転した。
神は、人間にとって役立つ限りにおいて存在を許された。
人間は、自分を中心軸として世界を回すようになった。
ニーチェ思想が狂人の思想であるのは、この自分中心という偽りの前提の当然の帰結である。
この世界は人間中心にできていないのは当たり前のことだ。しかし、その当たり前のことに目をつぶって、あえて人間中心に回そうとするから無理がある。
だから、狂うのである。
現代人の世界観は狂っている。
学校教育はこの世界観に基づいているから、子供は狂う。
今、猟奇的な殺人や、尊属殺人、通り魔、快楽殺人など、異常な事件が増えているのは、狂った教育の当然の帰結である。
教育を神中心にする以外に解決はない。
教育を変えるには、まず思想を変えるべきだ。
つまり、聖書啓示に基づく思想に変えるべきだ。
近代思想と比べて、聖書の思想はきわめて合理的で、首尾一貫している。
さて、次のどちらが首尾一貫しているだろうか。
(1)「神はこの世界を創造された。だから、神を中心に世界は回っており、また、回さなければならない。」
(2)「人間はこの世界を創造しなかった。しかし、人間を中心に世界は回っていると考え、また、回そうではないか。」
もちろん、1だ。
我々の周りの世界は2の世界だ。だから、めちゃくちゃになっている。
みんな素直になって、当たり前のものを当たり前に受け取る時代が来ようとしている。
2008年5月27日
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