頑固に悔い改めない人の心を神はさらに頑固にされる
ある友人が、他人から借りたお金を400万円返していないということを、ある人から聞いた。
びっくりした。最近、彼はある病気にかかり歩行が困難になっていた。
どうしてこんなことが起こったのか不思議だった。
クリスチャンであり、ある教会の長老をしている。
そのような立場にいる人がこういう罪を犯しているならば、何らかの問題に巻き込まれることを避けることはできない。
神は我々の行いに応じて裁きをされる。
罪を犯しながら、まともに暮らせるわけがない。
ある牧師からこの罪に対して悔い改めを迫られたが、どなり返したそうだ。
「罪を犯しながら、我を通す」ということがどんなに恐ろしいことか。
誰か自分に忠告してくれる人がいるうちはよい。
何度かの忠告の後に、神は放置される。
そして、逆に神がその人を「頑固にさせる」。
パロは、モーセの忠告に対して心をかたくなにした。
出エジプトの記事において、最初の何度かは「パロは心をかたくなにした」という表現だが、ある時を境に、「神がパロの心をかたくなにされた」という表現に変わる。
つまり、我々が頑固を通すと、ある時から神がわざと我々を頑固にされる。
この「頑固にされる」目的は、裁くためである。
頑固な人は、ある時を境に、悔い改めができなくなる。
そうなったら、残されているのは破滅しかない。
高慢になって忠告を聞かないことの恐ろしさはここにある。
滅びることが明らかなのにそこから引き返すことができなくなるのである。
だから、自分のもとに送られてきた忠告者を拒むことはできない。
はやめに自分を捨てて、素直に過ちを認め立ち返ることである。
これが知恵だ。
2008年11月15日
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