飛鳥氏の説に対する態度
<Y様>
子供みたいな心配で申し訳ありません。
多分私と同じような心配を、他の読者の方も感じておられることでしょう。
オカルト世界の人達は、私達が知らないことまでよく知っていると思います。
神様のよきご意志が先生の上にあって、彼らが提供する情報の中から
真実だけを選び取っていくことができるようお祈りしています。
<tomi>
ご心配をどうもありがとうございます。
私は、このテーマについては仮説しか述べることができません。
聖書に明確に否定されていることを述べるつもりはまったくありません。
今まで私が述べたことの中で聖書的ではないと思われる個所は恐らくないと思います。
私は神にしか属していない知識を求めているのではなく、神が啓示されたものを深く知るために様々な角度からトライしているだけです。
前前から繰り返して述べている私の指針は、
(1)頑固にならず
(2)逸脱せず
です。
私たちには、神の御言葉の範囲内において知識を得る自由がありますし、また、それは義務でもあります。
古来、新しい分野に光が当りはじめると、人々はそれを異端だと決め付けてきました。
その場合、その異端と決め付ける人々には、それが聖書に反することを証明する義務があります。
実際のところは、新しいことを嫌う保守的な人々は、正しいつもりになっているが頑固でしかなく、自由を束縛されていることが多いのです。
だから、問題は、「聖書にしか基準はない」ということです。
たとえば、ラッシュドゥーニーにしても、ゲイリー・ノースにしても、経済学や政治学、社会学、歴史学など様々な世俗の本を読んで、研究しています。
彼らは、それらを「これは世俗のものだから」という理由で、全部を捨て去るということはしません。
「聖書に従って」よいところをピックアップして、批判的に読んでいるということです。
これは、「王としてのクリスチャンの自由」です。
私には、自分に対して一つの基準しか適用するつもりはありません。
「聖書が明確に禁じているならば、やめる。そうでないならば、自由。」
2005年5月27日
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