この短い人生は歴史を通じて進む御国建設に参加するためである
人間の一生は短い。人の肉体で完全な時期は短い。中年になると、様々な病気にかかり始める。
こんなに短く、不完全な肉体を持つ我々にとって人生はどのような意味があるのだろうか。
もし、享楽主義や現世主義が真実であるならば、人生はほとんど失敗である。なぜならば、享楽を得られることはまれだからだ。
人生の大半を支配するのは苦痛・苦悩である。華と呼べる時期はごく短く、人生で華々しい成功を収める人はごく一握りである。
快楽に焦点を置くならば、自分の存在はいかにも空しい。
鮭が生まれた川に戻ってきて産卵し、その場で朽ち果てるように、我々も子供を生み育て、次世代を残して朽ち果てるだけのために存在しているのだろうか。
いや、違う。考え方を変えるべきである。
人間は、肉体を持つこの短い人生の間に、自分の永遠の立場のために投資を行っていると考えるべきだ。
この肉体で行った業は永遠に残り、それによって我々の永遠の立場が決定される、と考えるべきだ。
我々は自存しているのではなく、造られ、生かされている者である。
ならば、生かしている存在のために生きるのがふさわしい。
この短い人生の間にやるべきこととは、キリストの王国の拡大という過去から未来へと続く、教会に与えられた一貫した仕事に参加することである。
鮭のように、生まれては死に、生まれては死にというサイクルの一つを行って終わるということではなく、歴史を通じて進展している神の御国建設の「この時代に割り当てられた役割」を果たすということである。
人間は鮭とは違う。人間に言葉が与えられ、文字が与えられているのは「働きを継承させるため」である。
現在だけを生きるためではなく、未来に引き継がせるためである。
神が人間にお与えになった能力を考慮すると、人間が刹那的快楽に終始するための存在ではなく、未来の世代のために仕事を残す存在であるということがわかる。
我々は御国建設にどれだけ貢献したかによって、人生の評価を受ける。その評価は永遠に残り、永遠の世界において報いを受け続ける。
2007年3月12日
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