三位一体教理について
<ご質問>
はじめまして、私は正統的プロテスタントの単立教会に属する一平信徒です。
失礼ながら仮名をJJとさせていただきます。(メールアドレスに記載がありますが。。。)
三位一体が現今のキリスト教の正統と異端を分ける分水嶺であることは存じておりますが、私自身、主なる神であるイエス=キリストとヤハウェの神及び聖霊が三つの人格だとは考えませんし、正統といわれるカトリックやプロテスタントの教会に属する信徒や教職者の中にもそれを確信している方も多いと存じます。
サイト上の「反三位一体論は異端である」のページに記載されております論理についてもある程度存じておりますが、この論理にも大きな飛躍と盲点があると私は考えます。
当然、サベリウスの様態説を肯定するものではありませんが、伝統的なアタナシウス信条に含まれる三位一体教理も完全に矛盾無く、主なる神について説明しうるものではないと考えます。
論理を持って、論理を否定し、それにより神を知ろうとする事が、神の前に正しいとは思いませんが、
少なくとも、神学教理は神を説明しうる論理の完全さをもって万人を納得させない限り、不完全だと考えます。
記載された三位一体教理に対して、少なくとも矛盾であったり不可思議であったりする点についてあげさせて頂きますので、ご回答をお願いいたします。
[1]三人格の神と三人の神の相違について
「三人格の神」と簡単に記されておりますが、それは「三人の神」と何の相違があるのでしょうか?
サイトに記載された内容や現今の一部のキリスト者の言動では、三人格=別々の三人であることは明白です。
以上から、単純に考えて。
・三人格を有する一人の神を考えることは精神分裂的な神を考えることとなります。
・同性質/本質を持つ無限の存在を完全に独立な三つの無限の存在に分割することは不可能です。([2]に記載)いずれかが有限となり、その他より劣ることとなり、完全に同等な無限者の存在は不可能です。
・それぞれが異なる性質/本質を無限に持つ三つの神を考えると、その各々の神はいずれかの性質と本質をまったく有しない神となります。それはまた同時に、ギリシャ神話や仏教、日本神道などのように完全に独立な複数の神を考えることなり、唯一の神とはなりえません。([2]も参照)
結局のところ、キリスト教はその全知全能の神の教理について破綻をきたすか、あるいは三神教となりますが如何お考えでしょうか?
[2]神の無限性について
神は無限な存在でしょうか?有限な存在でしょうか?
時間的に言えば、永遠か否か?
能力に関して言えば全知全能か否か?
ということになりますが、少なくともキリスト教会において神は永遠の昔から永遠の未来まであられる全知全能の、無限の存在として捕らえられています。
簡単な数学的な論理から考えれば分かりますが、無限を複数の無限に分割することは不可能です。
もっとも簡単にユークリッド空間を考えれば分かりますが、無限に広がるxyz空間を分割しようとすると、それぞれは、反無限もしくは有限な空間となります。
無限な空間を全領域において、無限な空間に分割することは不可能なのです。
無限であられる神を三分割するということは、各々を制限することに必然的につながります。
故に三つに分割された別個の神の人格、父と子と聖霊を考えることは各々有限なものであり、言ってみれば全知全能を否定することになりますが、いかがお考えでしょうか?
数学は神学よりはるかに低次な物だと思いますが、それすらも満足できない論理は、不完全だと言わざるを得ませんよね。
[3]神の愛の定義について
愛に関しての「対自関係」と「対他関係」について述べておられますが、そもそも「神の愛」とは何でしょうか?述べておられる「愛」は対自であれ対他であれ、目的は自らが愛し愛されるという「自己への愛」です。
神の内部に三つの人格があり、その各々の人格が愛し合うことにより、三つ一まとめの神の内部に愛が完結するとするならば、各々の人格は結局それぞれ自らで愛を完結することができない不完全な神の人格となりますし、各々の人格が目的とするところは、結局自らが愛されるための、他への「愛」の提供です。
本来、主イエスが語られたキリスト教の「神への愛」と「隣人愛」とは何でしょうか?
自らが愛されるため他へ提供するための「愛」なのでしょうか?
神ご自身の自存的社会とは、そのような「愛」によって維持される社会でしょうか?
違うはずです、マタイの福音書5章44節には
「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」
また同書12章30節には
「心を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」
と語られており、これこそが「神への愛」と「隣人愛」の本質であり、「神の愛」はその根源たる主なる神の無限の愛です。その意味は「対自」であるとか「対他」であるといった議論ではなく、神の本質たる「善と真理」を愛することが神への愛であり、そこから隣人に無条件に善を成すことを欲するという隣人愛が生まれます。
善は善だから善を欲っし、真理は真理だから真理を欲するということが、「神への愛」であり、それは必ず「隣人愛」へと連結するはずです。
「自己への愛」や「世への愛」はその「神への愛」に従属して秩序付けられなければならず、それら二つの愛が、最優先となり、「神への愛」と倒置されるとき人間は極めて地獄的な者となるのではないでしょうか?
サイトに論理展開されている愛とは、結局のところ人間の側から考えた「自己への愛」から導かれる論理であり、「神の愛」を第一優先に考えねばならないという、主の教えから導かれた物ではない事が明らかです
また、それに続いて、神の人格を有限な人間と同等と考えることによる誤認から生まれた論理であると言わざるを得ません。神の本質が「善と真理」であることを理解すれば「善は善だから善を欲し、真理は真理だから真理を欲する」事を主なる神はご自身の中に完結しておられ、したがって主が戒められた「神への愛」と「隣人愛」の根源となる「神の愛」をご自身の中に完結しておられることが理解されるはずですし、「神の愛」に人間の「自己への愛」で議論されるような「対自」と「対他」の議論を問題の根本として持ち込むこと事態がナンセンスだと理解されるのではないでしょうか?
唯一の主なる神の中に完結された「神の愛」が全宇宙の自然的万物と天界及びそれらの秩序の創造と維持、人類に対する無条件の愛としても現れているのではないでしょうか?
人間が神のレプリカとなる根源は、「神の愛」に基づいた「善と真理」を理解し意思し行動するという本来の人間性の獲得であり、手足や顔や他人を愛し愛されるといったことではないと考えますが。
福音書に述べられている父なる神とイエス=キリストの永遠の愛とは、主なる神イエスの中に完結された「善と真理」の結合を意味しており、主なる神の神性(父なる神)と、神に属する本来の人間性(イエス)の結合ないし愛が示されているのではありませんか?
[4]父と子と聖霊の一体性について
以上[1]〜[3]を考えるときに、
主なる神について、父なる神ヤハウェが神性を、子なる神イエス=キリストが人間性を、聖霊が神の働きを、もっと言えば、それぞれ、イエス=キリストの霊と体と活動を指し、それらはイエス=キリスト御自身の中に完結しており、主イエスこそ唯一の神である、と考えることにいかなる弊害があるでしょうか?
それによって、新約聖書に述べられているように完全な唯一の神がイエス=キリストであることが明白に理解され、イエス=キリストを信じる信仰こそ、救う信仰であると理解されませんか?
なお、主イエスが自らの神性を「父」と呼んだことは、ヨハネなど福音書に述べられているように主自らがマリアから取られた有限な人間性から呼んだためと理解できないでしょうか?
主御自身が有限な人間性を取られた以上、その人間性の方面からは誘惑も受けられたことが聖書に記されていますし、
試練において内にある神性と人間性の一時的な分離(程度は違うにしても人間の理性と欲望の分離など)があって当然のはずです。
十字架の苦難において完全に人間性に栄光を与えられ、それ故に父なる神すなわち神性と同化させた主イエスは体を持って復活されたと理解することが自然ではないでしょうか?
私は、主が「私を見たものは父を見たのです。」と言われたのは主イエスの中に全てが完結しているためであると理解します。
このような理解は、サベリウスの様態論ではなく、霊-体-働きとして一体の唯一の主なる神を信じるものですが、何処に異端的弊害や、主なる神の冒涜が存在しますか?
明白な弊害について、教えてください。すでにサイトで述べられているような、神の内部における「愛の完結」と「神の自存性」は、不完全な誤った論理であり否定の根拠とはなりえませんし、「三人格」による三神教傾斜の否定と、無限者の三分割についての論理的な説明がなされるべきです。
三位一体教理が完全な正しい教理であれば、以上の[1]から[4]について完全に論理的に回答されるものと信じます。
以上、お手数ですがご回答のほどよろしくお願いいたします。
<お答え>
はじめまして
メールありがとうございました。
さて、議論についてですが、神の性質について、数学的論理で判断するのは違法です。この問題については、聖書啓示に「もっぱら」基づかねばなりません。
なぜならば、神を裁く基準があると仮定するならば、基準が神よりも先在していることを前提とすることになり、カトリックの自然法と同じ手法を用いることになるからです。
聖書は明らかに、父なる神と子なる神が対話できる関係、つまり、別の人格として描いており、それと同時に、この2つの神が一人であるとも述べています。
三位一体論は、聖書から導かれるものであり、我々の数学的や論理的な議論を聖書啓示に優先させることはできないので、「啓示されたものをそのまま受け入れる以外にはない」のです。
三位一体論以外のいかなる教えも、聖書から論証することはできず、それゆえ、誤謬ということになります。
それゆえ、聖書を最高権威として議論しない場合には、水掛論となり時間の無駄になりますので、この立場を受け入れていただけない場合は、対話するつもりはまったくありませんので、おひきとりを願いたくよろしくお願い申し上げます。
失礼をお許しください。
2005年4月11日
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