批判するなら教派政治よりも御言葉に直接当たりたまえ


<O様>
Auburn Avenue Theology(オーバン・アヴェニュー神学)についてでございます。

ネットで検索致しましたところ、

http://my.opera.com/QuantumEwing/blog/npp?cid=5681312

ですが、

1)『この「オーバンアベニュー神学」の推進者には、再建主義の論客であるアンドリュー・サンドリンやジェームズ・ジョーダンが名を連ねており、まさに、再建主義と連動した新たなる動き、ということが出来るでありましょう。』とありますが、なんと、サンドリンやジョーダンが異端に流れたということでしょうか。

2)『「二契約論再建主義」(ラッシュドゥーニー、ゲイリー・ノース、グレッグ・バーンセン)は、スコットランド長老教会大会によって、「ウェストミンスター信仰告白に違反する」として、異端宣告を受けました。「非二契約論再建主義」(ジェームズ・ジョーダン、アンドリュー・サンドリン、スティーブ・ウィルキンズ)は、北米長老教会の各地の中会によって、「ウェストミンスター信仰告白に違反する」として、排除勧告を受けました。そうしますと、再建主義は、もはや、いかような形態においても、改革長老教会の世界の中では生き残れないように思われます。 』

自称アルミニアンが書いているだけあって、もう味噌も何とかもごちゃ混ぜになっているのですが、改革長老教会でも再建主義はきちんと存続しているのではないでしょうか?来年9月のCalvin 500の後援をしているWestminster神学校にしてもP&R PublishingにしてもRushdoonyを斥けていないのですから。

お忙しいところ誠に恐縮ですが、御教示頂ければ幸いでございます。

<tomi>
このサイト見ましたが、ひどいですね。

改革派神学の基礎の基礎も知らない。

おっしゃるとおり、まさに「味噌も糞も一緒にしている」。

恐らく、改革派神学をきちんと勉強したことがない人が、どこかのアメリカのホームページの誰かがまとめたものを鵜呑みにして書いているだけでしょう。

直接のソースに当たらず、教会や教団の政治的な動きだけから判断すると危険だという例です。


従来の改革派神学であるならば、モーセ律法を、アダムの「業の契約」の延長上にあるものとして捉えて、キリストの贖罪のみわざによって、「業の契約」は廃棄された、と考えるわけです。

改革派神学は、モーセ律法を恵みの契約の延長上に置くんですよ。

むしろ、モーセ律法を業の延長上に置くのは、アルミニアン・ディスペンセーショナリズム。

これ、基本中の基本。

それに、この作者が信用できないのは、御言葉から再建主義の著者の言葉を挙げて反論していない。

私たちクリスチャンにとって、どの団体が誰かを追い出したとか、生き残れないとか、御言葉のプルーフと比べれば、教会政治なんてどうでもいいんですよ。

大切なのは、「聖書は何を言っているのか。」です。

もし真面目なクリスチャンならば、その点をまず求めるはずです。つまり、もし再建主義を批判するなら、再建主義の主張が聖書的かどうかにこだわるはず。

何に着目するかによってその人の信仰は分かりますよね。

教会とか教派の政治に着目し、聖書的かどうかに着目できないのは、人間に頼っているから。人の目を気にして神を恐れていないから。

恐らくそうでしょう。

それにしましても興味深いのは、再建主義と一体であるオーバンアベニュー神学が、改革派の新進気鋭の神学者J.D.G.ダンが『ガラテヤ書におけるパウロ神学』で提起した「改革派の新パラダイム」と、どうやら、密接な関連を持っているようであることです。

再建主義とオーバン・アヴェニュー神学は一体ではありません。

ラルフ・スミスは、私が教会にいた時点で、すでに自分たちは、再建主義としてやらないと勉強会で言っていました。

ジェームズ・ジョーダンも、かなり前から自分のことを再建主義ではないと言っています。アンドリュー・サンドリンは、オーバン・アヴェニュー神学を信じていると聞いたことがないですが、もしそうだとしても、彼はカルケドンの後継者と見なされていましたが、ラッシュドゥーニーの生前すでに彼と袂を分かち、再建主義とは距離を置いてました。

「二契約論再建主義」(ラッシュドゥーニー、ゲイリー・ノース、グレッグ・バーンセン)は、スコットランド長老教会大会によって、「ウェストミンスター信仰告白に違反する」として、異端宣告を受けました。

「スコットランド長老教会」は問題外でしょう。言っていること、めちゃくちゃですよ。一例をあげましょうか。

ガラテヤ5:3「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法全体をおこなう義務があります。」使徒パウロ手紙であるガラテヤ書は、聖書の中でセオノミーに対する完全な論駁書の一つである。もちろん、パウロが儀式律法についてのみ言っているのであり、我々は儀式律法を守ることによるのではなく信仰によって義と認められるという見解は、セオノミストの著作者たちによって否定される。(2001年9月スコットランド長老教会大会決議)

大嘘つき。

セオノミーが行為義認を主張しているとどこで言ったか?

セオノミストの本は、何千ページも読んだが、一度たりとも「行いによって義と認められる」なんて文句に出くわしたことがない。

むしろ、ラッシュドゥーニーはこう述べている。

 「イエス・キリストによる救いは、救いが神の恵みの御業によることを示している。神の恵みの御業による救い<のみ>が、全聖書が提示している救いの教理である。(our salvation in Jesus Christ sets forth the salvation by God’s gracious act which is <the only> doctrine of salvation all Scripture sets forth.)」(R. J. Rushdoony, Institutes of Biblical Law, P&R, 1973, p.304.)[本文での強調はイタリック体による]

スコットランド長老教会のこの決議を書いた人間は、戒規処分に値するでしょうね。


「非二契約論再建主義」(ジェームズ・ジョーダン、アンドリュー・サンドリン、スティーブ・ウィルキンズ)は、北米長老教会の各地の中会によって、「ウェストミンスター信仰告白に違反する」として、排除勧告を受けました。

これはあるかもしれませんね。

ジェームズ・ジョーダンのオーバン・アヴェニュー神学は明らかに異端ですから。

そうしますと、再建主義は、もはや、いかような形態においても、改革長老教会の世界の中では生き残れないように思われます。

御言葉に対する忠実と比較すれば、長老教会の世界で生き残るかどうかなんてどうでもいいことです。

もし再建主義を追い出すならば、追い出したほうが神様から追い出されるだけですから。

大切なのは、政治ではなく、御言葉なんです。

もし真面目に批判出したいなら、聖書からやったらどうでしょうか?

 

 

2008年10月27日

 

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