日本は多神教の国ではない2


多神教を国是としてはならない2番目の理由は、専制になりやすいからである。

究極の価値が「多様性」にあるならば、統一性を合法化できなくなる。

しかし、社会が成立するには統一性が必要なのだから、為政者は「非合法」的に国を統治することになる。

つまり、統治が「やってはならないことを仕方がないからやっている行為」になってしまう。

そういった場合に、為政者の統治には歯止めがかからず専制になる恐れが十分にある。

国の基本原理は、「統一性」に合法性を与えるものでなければならない。

だから、「多様性」を究極とする多神教ではだめなのだ。

逆に、「統一性」が究極になる「一位一神教」も間違いだ。一位一神教とは、神は一人であり、なおかつ人格も一つであるとする教え。

「多様性」に究極的な価値を与えることができないから。

だから、フリーメイソンのユニテリアン主義や、イスラム教は、不可避的に専制に陥らざるをえない。

一位一神教の世界では、「多様性」は「統一性」に至るまでの「不完全な姿」であり克服すべきとみなされてしまう。

解決は、三位一神教しかない。

三位一神教とは、「神はお一人だが、三つの人格を持つ」とする。

ここにおいて、「多様性」も「統一性」も同時に究極である。

だから、三位一神教を基本原理とする政体において、人々は多様であって、なおかつ、共同体として統一される。多様性も統一性も合法であるから、互いにつぶしあう必要はない。

キリスト教において、究極的に三位の神は、互いに契約を結んで一人である。

これは、法人を考えれば理解できる。

法人は法的に一人である。しかし、構成員は多様である。

多様な構成員が契約を結んで一人として行動する。

三位一神教の体制以外には、国は専制か無政府かいずれかに陥り、無政府は最終的には専制に至るから、いずれにしろ、国民は奴隷化される。

キリスト教の原理がない社会は、最終的に国民は奴隷になる以外にはないのだ。

 

 

2011年1月4日

 

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