偽クリスチャンの氾濫は教会戒規が行われていないためである
私が大学生のころ、偽クリスチャンなんてほとんどいなかったように思える。
実際、今、当時の仲間と仕事の取引をしても、代金の支払いが遅れたり、なかったりなんていうことはまったくない。約束はきちんと守る。
しかし、最近はまったく駄目。
仕事の紹介で出会うクリスチャン、クリスチャンみんな「食わせ物」だ。
金払いが悪い。
金払いがよいか悪いかは、クリスチャンであるかないかの決定的な判断基準である。
なぜならば、金銭は、その人の人生における主要な価値観がどこにあるかを顕著に示すからだ。
報酬をきちんと払うことができないような人間は、生まれ変わっていないのである。
彼は、この世のことで頭がいっぱいで、それ以外のことをどうでもよいと考えているのだ。
クリスチャンの世界はまったく狭い。これは仕事の業界についても言えるが、たとえば、翻訳の世界において、報酬がきちんと支払われなければうわさは広がる。「あの会社は気をつけろ」とか「あの人の依頼は断れ」とか。
だから、納期厳守、支払い厳守はあの業界で生き残る場合最低条件である。
恐らく、これはどの世界でも同じだろう。
クリスチャンの世界も狭いから、筒抜けである。
はじめて会ったクリスチャンでも、話している中で、共通の知り合いが出てくるものである。
経験から分かるように、世間の人物評価はだいたい当っている。
まったく見当はずれな評価は定着しないものである。
普段から誰に対しても誠実に振舞わない人は、結局どの世界でもそれなりの評判が残る。
「実を見て木を知れ」とイエスは言われた。
あまりにも悪い実ばかり結ぶようだったら、その人は本当に生まれ変わっていないと判断すべきである。
つまり、悪魔の子なのだ。
もともと悪魔の子として生まれて、一時的にクリスチャンに化けたが、正体を隠すことに疲れて本性を現したということだろう。
そんな偽クリスチャンと出会うことが多いのだが、どうしてだろう。
恐らく、教会そのものが堕落しているか、それとも、洗礼を授ける基準が低下したか、監督不行き届きか、だろう。
見ぬけずに悪魔の子に洗礼を授けてしまう場合もあるだろう。我々は全知ではないのだからしかたがない。
しかし、牧師は、悪魔の子と分かった場合に、公的に追放宣言をすべきである。
他の教会やクリスチャンに迷惑が及ばないためである。
その場合、理由をきちんと説明し、それについて質問された場合は、証拠を挙げて説明できなければならない。
洗礼を授けてあとはほったらかしというのは一番悪い。
契約に入っている人は互いに一つである。だから、洗礼によって契約の中に入れたからには、牧師はその責任を問われる。
もし悪魔の子であり、罪を悔い改めることを公然と拒否している人を契約の中にとどめておくならば、一人の腐れは全体に広がる。
だから、「ああ、あの人はうちで洗礼を受けたけど、今はどこにいるかしらねえ」というような状態は許されないのだ。
きちんと契約的な生活をしていることが分からない人は、除名して洗礼を無効と宣言すべきだ。
このような偽クリスチャンの氾濫は、きちんとした教会戒規が行われていないためである。
2005年7月1日
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