ユダヤ人が回復しないならクリスチャンの救いも不確かになる
<OK様>
私が思うには、異邦人の時が終わるまでは、不条理に思えても置換神学は成立してしまうと思いますが。(神の国はあなた方から取り上げられて、神の国のために見を結ぶ民に与えられる。)
どんなでしょうか?
<tomi>
そうですね。置換神学(イスラエルは紀元70年に完全に捨てられてしまった。以後イスラエルと言えばクリスチャンという意味しかないと考える立場)は、異邦人クリスチャンのユダヤ嫌いから生まれた部分が多いと思います。
しかし、聖書からユダヤ性を取り除くことはできません。
ユダヤ人は、一部にどんなに悪辣な人々がいたとしても、やはり神の民であり、選民の地位を失っていません。
ローマ11章はこのことを強力に主張しています。
「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。」(ローマ11・1)
ここで「民」「イスラエル人」は生物学的ユダヤ人を指します。なぜならば、次に「アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身」とあるからです。
「神はご自分の民、生物学的ユダヤ人を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」
「絶対にそんなことはない」と言っているのです!!!
どうして置換神学が成立するでしょうか???
私は、今のカルヴァン派の主流がどうして置換神学に陥ったか不思議でなりません。
なぜならば、カルヴァン派の教理の中心には、「聖徒の永遠堅持」があるからです。
それは、すなわち、「一度救われた人は絶対に滅びない」という教理です。
ユダヤ人は、神の民の型なのですから、アブラハムにおいて一度選ばれた以上、必ず回復するはずです。
そうでなければ、「神は選んだ者を捨てることがあるのか?」という重大な問題が生じます。
全的に堕落した人間は、神から差し伸べられた救いの手を払い落とすほど愚かで無能です。
ロトと彼の家族は、3人の御使いがソドムの滅亡について預言しに来たときに、その町を離れることに躊躇していました。
そこで3人の御使いはどうしたか?無理やり手を引いて連れ出したのです。
「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。 」(創世記19・16)
このように、救いとは神の一方的な恵みです。
それゆえ、一度救われた人は、絶対に滅びない。ロトの妻が滅んだのは、「堕落した文化に未練を持つな」との教訓のためであり、「永遠堅持」を否定するものではない。
聖書は一貫して「選ばれた者の救いの確実性」を主張している。
ユダヤ人は、「選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者」(ローマ11・28)なのです。
ここに記されているのは、「選び」→「愛されている」→「回復する」という理屈です。
もし型であるユダヤ人が捨てられてしまうならば、本体であるクリスチャンも捨てられることがあるという理屈が成立してしまう。
これは恐ろしいことです。
我々の中で誰が一生神に忠実で、絶対に裏切らない自信を持っている人がいるでしょうか。
我々が信仰にとどまっていられるのは、ひたすらに神の恵みです。だから、我々には確信がある。
聖書は、滅びる人間の典型としてパリサイ人をあげている。
彼らは「自分に罪なし。それゆえ、贖罪信仰も必要なし。」と考えていた人々だった。
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9・41)
滅びる人間とは、「俺がどうしてキリストを信じなければならないんだ。俺のどこに罪がある。」とうそぶく盲目な人間です。
神は、救いを望んでいる人に死を宣告されるような方ではありません。
「彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。」(イザヤ42・3)
2005年5月21日
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