永遠のいのちを受けるには全的献身をすべきである


<MK様>
始めまして、開業医をしておりますMKと申します。
10年以上前に受洗しましたが、とある事情から信仰を失い、約1年半に、とある事件
を通して、信仰を回復いたしました。現在、とある教会に通っておりますが、非常な
物足りなさを感じつつ過ごしております。礼拝以外の教会行事に参加しても虚しさを
覚えるだけですので、参加は極力控えております(理由は敢えて申しません)。
そこで、この教会で唯一信頼できる兄弟の一人であるO氏と聖研を始めました。
最近、貴兄のホームページを知り、ちょくちょく拝読しております。共感できる内容
が多々あります。私が最近行った聖研内容のチェックを頂けると幸いです。
「主がここにおられる」と思いつつも、やはり独学というのは辛いものがあります。
お墨付きが欲しいというのではありません。第3者から見て、当聖研がこの方向で良い
かどうか、ご確認頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。
当聖研の一部をご紹介致します。


<tomi>
聖研をはじめられたということは、素晴らしいですね。
今の教会は、行事に時間を浪費するよりも聖書研究に時間を割くほうが益があると思います。

<MK様>

研究1
今回は、ロマ書12:2「この世と調子を合わせてはいけません。」を取り上げます。

まずは、「この世」をどう理解するか、から始めます。検索した結果、アイオーンは、
新約聖書に122回登場しますが、この聖句のように、指示代名詞「この」が付いて
いる個所のみを抜粋すると、以下の個所に絞られてきます(パウロの書簡のみ)。
コリント第1、1:20、2:6、2:8、3:18
コリント第2、4:4
エペソ書、1:21
の計6箇所です。順次みて行きます。

コリント第1、1:20 この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵
を愚かなものにされたではありませんか。
最初に登場する「この世」がアイオーンです。後半の「この世」はコスモス(世界)
という単語が使われています。注目したいのは、修飾する名詞「議論家」という単語です。

コリント第1、2:6 この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く
支配者たちの知恵でもありません。ここでは、2箇所とも、アイオーンが使われています。
注目すべきは、やはり修飾する名詞です。「知恵」と「支配者」。

順次、修飾する語句を列挙します。「支配者」、「知者」「この世の神」

エペソ1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、
次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
登場する単語は、「支配」「権威」「権力」「主権」です。

そうです。これらの単語から直ちにひらめく人物は、パリサイ派、律法学者、さらには
改心前のパリサイ派「サウロ」自身です! 
従って、「この世」とは、「律法主義やパリサイ主義の蔓延する時代」と解釈されます。

この聖句の背後に隠された意味、パウロの言いたかったことはこういうことになります。

「この世の愚神を唯一絶対の神と思い違いをし、偽善の教理を強要する律法主義の蔓延
する時代にあっても、そのような愚かな指導者達に聞き従ってはならない」

<tomi>
結論そのものは正しいと思います。
ただ、結論を導き出す上で重要視すべきは、語句研究だけではなく、同時に文脈も配慮することだと思います。
筆者の言いたいことを探るには、「筆者の思考の流れ」を追うことが重要です。

ローマ12・2は、ローマ12・1とのつながりの中で述べられています。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 」(ローマ12・1)

パウロは、自分自身を「聖別された供え物」にしなさい、とローマ教会の人々に勧めています。
これは、明らかに幕屋や神殿において捧げられる全焼のいけにえを念頭においています。
全焼のいけにえとは、「すべてを焼き尽くし、神にだけ捧げる供え物」です。

罪のためのいけにえは、キリストを表しています。罪人である我々は罪のための犠牲にはなれません。我々は贖われる立場にあり、罪のために何事も成しえません。

「・・・それ(罪のためのいけにえ)は最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。」(レビ10・17)

罪のためのいけにえは、過越の犠牲と同様に食べなければなりませんでした(食べることは、犠牲と同体になり、自分も裁かれたことを象徴する)が、全焼のいけにえは、一部を除いてすべて煙にしなければなりませんでした。

アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして捧げるよう命令されたことからも分かるように、このいけにえは全的献身を象徴しています。

原則をはじめに出して、内容を述べていくというパウロの書き方の特徴から考えると、ローマ12章以降は、律法に含まれる「全焼のいけにえ」の霊的な意味を解き明かしている言葉であると考えられます。それゆえ、「クリスチャンにとって全的献身とは何か?」というテーマのもとに記された言葉であるという大きな流れの中で2節も解釈する必要があると思います。

「世と調子を合わせる」とは、「全的献身をしていない」態度です。

それは、「神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかを知ること」を求めず、そのために「心の一新によって自分を変えること」もしない世の人々と同じ考え方、行動をするということを意味します。

契約の民として留まりたい人は「罪のためのいけにえ」だけではなく「全焼のいけにえ」も捧げなければなりませんでした。

それゆえ、キリストの贖いを受けて、永遠のいのちを受け継ぐためには、政治・経済・文化をはじめ、この世界に存在するすべてのものについて神の主権を認めて、あらゆる領域において、ただひたすらに神の栄光のために生きることを求める必要があります。

神の主権の及ぶ範囲を教会生活に限定する考えが、全的献身をしている人々の考えとみなすことは到底できないからです。

 

 

2004年9月7日

 

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